パノラマ 「殊に、自分等にべんりであったのは、其頂上に歩兵の掘った掩壕 (えんごう)が、さながら我々の為めにでもあるかの如く残し棄てられてあつたことで、自分は三浦くんと一緒に毛布(けつとう)を其底(そこ)に敷いて、芝居でも見る気で、じつとその前に展(ひろ)げられた大パノラマを望んだ。 芝居でも見る気!いや、其時は左様でも無かった。 初めて臨んだ戦争の大舞台 凄まじい大砲の巨音(おと)が天地を震ふばかりに轟(とろどき)渡つて、曳火弾は白く、着発弾は黄く黒く爆発するを見ると、臆病のようであるが何となく氣がそはそはして、胸が妙にどきついて、かうしてじつとしては居られぬやうな仏地が爲る。頭を出すと、打たれる恐れがあるので、否、先日現に其經驗があるので、自分等は寧ろ小さくなつて、臥そべって、其前方の大景を望んだので。 風は烈しいが、暖かい。空気の透明に澄んだ日で、南山の敵の陣地から 打出す砲はさながら取に指すかのやうに見える。わが砲共陣地は?と見ると、一番近いのが、自分等の萵地から約五百米ばかり離れた扁平な丘陵の上で、其處に野砲ばかり据えられているが、それょり猶五百米 を隔てて、十ニ三門並べた砲共陣地があるのが歴然見える。眉を舉げて望 むと、今朝の荒れ模様の名殘は猶金州湾から大連湾へと懸けて明かに其の痕跡を留めて居て、透徹し過ぎた空に、黑い凄い殘雲が砲烟(ほうえん)か柯ぞのやうにちぎれちぎれに飛んで、海の色の碧の濃さと言つたら……。岸には、 怒既の烈しく碎けるのが白く、白く。 『そら打つた!』 と言ふと、共に絶大なる響。続いてわが砲兵陣地からは、砲身がびかッと光ると同時に、砲彈は空気を裂いて嗚って飛んで行く。それと引違ひ に、敵の砲弾も音響と共に盛に炸裂して、最近いものは、自分等の高地の二百米ぱかりの下に来て、破裂して黑い凄まじい砂烟をニ三間ほど颱(あ)げた。その最も多く来るのは、第二番目の陣地で、一時は十五六発の敵彈が其附近に黑く白く落下するのを見た。下の砲共陣地には砲門が五ッ六ッ、其周囲もに五六の人の小さい影が人形のやうに見えて、瞳を凝すと、 打つ時に手を舉げて號令するのもありありと。」(「第二軍従征日記」『明治文学大系第67巻』253-4頁) パノラマ〚英 panorama〛建物内に パノラマ イスタンブールのトルコのコンスタンティヌス攻略パノラマ https://www.youtube.com/watch?v=D3tJ422N3Rg パノラマ 建物内に、野外の高所から四方を展望するのと同じ感じを与えるように作った装置。建物の内部に円く絵画をめぐらし、中央の展望台から見回すと、視覚の錯覚によって完全な実景を見る感を与える。 画面には陰彩を生じないように反射光線を用い、また、絵画の前面には立体的実物を置き、両者の色彩・形状に注意して区別を不明瞭にしてある。わが国最初のパノラマ館は 明治二三年五月七日開場の上野パノラマ館、同年五月二二日開場の浅草の日本パノラマ館である。前者は戊辰戦争を、 後者は南北戦争のシーンであった。明治中・後期の見せ物。 また、一般に大景観の意味がある。 山花袋『田金教師』三七(明治四ニ)[上野の]東照宮の前では、女学生が派手な蝙蝠傘をさして歩いて居た。パノラマには、 古ぽけた日清戦争の画か何かがかゝつてゐた。 「東照宮とは、徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社です。日光東照宮、久能山東照宮が有名ですが、全国各地に数多くございます。 そのため、他の東照宮と区別するため上野東照宮と呼ばれておりますが、正式名称は東照宮でございます。」http://www.uenotoshogu.com/about/上野東照宮HP パノラマ館の図 「かしこは弾丸も来たらず、見晴しは好し、戦闘視察には最も便りよからめ、あれへあれ へ」この声に導かれて周囲を見渡せば、西も東も砲煙弾雨につつまれ、朦朧(もうろう)たる中に千軍万馬が馳駆する。破裂する栂弾地雷は地獄のような赤を発し、すさまじくも又おぞましい……。 眼前に拡がるこの現実と紛う戦闘光景は上野公園のパノラマ。このパノラマ館は明治二十三年第三回内国勧業博覧会に白河戦争の図でもって開設されたが、その後いったん閉館。明治二十九年になって、図を旅順攻撃に代えて、上野公関内桜ヶ岡に設立された。戦闘の すさまじさを如実に伝える妙画は、野村芳園、芳光両画伯の手になるものと伝う。 (山本松谷函) 『田舎教師』目的地から規定される欲望の担い手としての主体 近所の女工たちに性的な挑発を受けた主人公は、その性欲を鎮めるべく「中田遊郭」に行くことを決め、河畔の道を歩く。 「路は長かった。川の上に簇がる雲の姿が変わる度に、水脈の穏やかに曲がる度に、川の感じが常に変わった。夕日は次第に低く、水の色は段々に納屋色になり、空気は身に沁み渡ように濃い深い影を帯びて来た」(田山1980:115)。 冒頭と同様に、まず目的地までの行程の線が引かれ、そこまでの距離が語られる。その上を主人公が歩いていく。主人公の歩行が時間の進行を刻み、そして行程の上を移動する主人公の目に写る情景が小説の情景描写となりその空間に広がりを与える。 目的地へ歩行が作品の時間と空間を形作るばかりではない。目的地への関係が主人公の内面的欲望を規定する。 「清三は自らの影の長く草のうえに曳くのを見ながら時々自ら顧みたり、自ら罵ったりした。立ち留って堕落した心の状態を叱しても見た。行田の家のこと、東京の友のことも考えた。そうかと思うと、懐から汗でよごれた財布を出して、半月分の月給が入っているのを確かめてにっこりした。二円もあれば沢山だということはかねてから小耳に挟んで聞いている。青陽楼という中田では一番大きな家だ、其処には綺麗な女がいるということも知っていた。足を留めさせる力も大きかったが、それよりも足を進めさせる力の方が一層強かった。心と心が戦い、情と意が争い、理想と欲望とが絡み合う間にも、体はある大きな力へと引きずられるように先へ先へと進んだ」(田山1980:155)。 描写は主人公の目からみた川辺の情景から主人公の内省へと向い、さらに主人公の内面的な性的欲望をめぐる葛藤へといたる。この内面的欲望と葛藤はあくまでの目的地(中田遊郭)への空間的関係から規定されている。小説の描写は、目的地までの距離、空間、風景、そこに映る主人公の影、主人公の内省、内面の欲望へと進む。主人公の内面的欲望は、目的地から距離という地理的関係から導き出されている。 描写はさらに続く。 「渡良瀬川の利根川に合するあたりは、ひろびろとしてまことに坂東太郎の名に背かぬほど大河の趣を為していた。夕日はもう全く沈んで、対岸の土手に微かにその余光が残っているばかり、先程の雲の名残とみえるちぎれ雲は縁を赤く染めてその上に覚束なく浮いていた。白帆がこころ懶(もの)うさそうに深い碧の上を滑って行く。 透綾の羽織に白地の絣を着て、安い麦稈の帽子を冠った清三の姿は、キリギリスがないたり鈴虫が好い声を立てたり阜斯(ばった)が飛び立ったりする土手の草路を急いで歩いて行った。人通りのない夕暮れ近い空気に、広い漾々(ようよう)とした大河を前景にして、その痩削の姿は浮き出すようにみえる。土手と川との間のいつも水をかぶる平地には小豆や豆やもろこしが豊かに繁った。ふとある一種の響きが川にとどろきわたって聞こえたと思うと、前の長い長い栗橋の鉄橋を汽車が白い烟を立てて通って行くのが見えた」(田山1980:155-6)。 夕陽を受ける人影 「俄(にわか)に起る敵兵敗走の光景?。愈々(いよいよ)陷落と言ふので、今迄頑強に抵抗した 敵の歩兵は皆な一散に掩壕の中から飛出す。三面のわが兵は今ぞ時――と驀地(まっしくぐら)に突進する。混乱狼藉のさまは鼎を覆えしたようで、山上の路を遁(のが)れ去るもの、山腹を這つて走る者、旅順街道に出づる者、これが夕陽(せきよう)の明かな空気の中に手に取るやうに見える。」(「第二軍従征日記」『明治文学大系第67巻』260頁)
by takumi429
| 2014-06-15 18:53
| 田山花袋研究
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