映画による共存在の幻想

島崎藤村『家』
写真と映像をつなぐ形で構成された小説
 家→(不成功に終わった)「家族」→死んでいく子
 家の崩壊
 

時間と空間が、写真によって切り取られ、
その写真の連続・集積として時空間が再構成される。

新聞 おなじ世界(国民国家)の中での出来事

写真 おなじ空間に同時に存在したことの証

毎日発刊される新聞。新聞の集積がその社会の時間の集積とのイメージになる。
その集積のなかに存在するばらばらの人々が、ひとつの時間をもつ社会の成員、とのイメージをもたらす。

写真の集積は、それに写された者たちが同じ空間を共有して時間を経てきたというイメージをもたらす。

同じ写真には写っていないが、おなじ「時空間」のなかにいたように思い込ませることができる装置、それが映画である。

映画は、想像の同時空間性をねつ造できる。

 クレショフの「観念的(創造的)地理」
「1920年、クレショフによって実現された実験の例は、二人のロシアの映画作家の以上のような考え方がまだ初期的なものにとどまっていることをしめしている。プドウキンの先生であり協力者であるクレショフは次のような場面を集めた。
1 1人の青年、左から右に行く。
2 1人の乙女、右から左に行く。
3 2人が出会って、手を握り合う。青年は手で空間の一点を指示する。
4 広い階段を持った白亜の大きな建物が見える。
5 2人の人物が階段をのぼっていく。
これらの断片の各々は、異なった一組のフイルムから引き抜かれたものであった。即ち最初の三つのカットはそれぞれ異なったロシアの街上で撮られたものであり、四番目のカットはアメリカの大統領官邸であった。しかし観客は、その場面をひとつの全体として知覚した。これこそクレショフが、観念的または創造的地理と呼ぶものである。」(アンリ・アジェル著『映画の美学』(岡田真吉訳)白水社1958年、92-3頁)。

ショット・アンド・リバースショット
カメラの目によって物語世界の中に入り込んだ錯覚を生じさせる。
主人公は観客の乗り物(だから透明感のある演技が望まれる)

映画は国威高揚のもっとも重要な手段とみなされた。
とりわけナチスと共産主義によって重視された
 例:民族の意志

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by takumi429 | 2014-07-13 21:35 | Comments(0)
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