フェミニズムの諸思想(2)
--- 参政権獲得の後 --- この(2)では、参政権獲得後のフェミニズムの諸思想、すなわち、実存主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、後期マルクス主義フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムをあつかう。 これまで我々があつかってきた、(1・2) 自由主義フェミニズム、(3) 文化フェミニズム、(4) 初期マルクス主義フェミニズムは、婦人が参政権を獲得する以前から存在し、かつこの参政権運動を支えてきた。しかし第二次世界大戦が終結し、多くの先進国で女性は参政権を獲得した。(婦人参政権が認められたのは、たとえばアメリカ合衆国は1920年、フランスは1944年、ドイツは1919年、日本とイタリアは1945年、中国は1947年、インド1947年である)。それによってそれまでの婦人解放運動は当初の目的を達成すると同時に目的を失った。それ移行、フェミニズム運動は政治的同権の獲得にもかかわらず存続する女性差別を、さらに文化的問題として深く追求する方向を歩みだした。その結果うまれたのが、これからのべる、(5) 実存主義的フェミニズム、(6) ラディカル・フェミニズム、(7) 後期マルクス主義フェミニズム、(8) ポストモダン・フェミニズム、の諸潮流である。 (5) 実存主義的フェミニズム 「実存主義的フェミニズム」という用語は存在しない。この言葉を指し示したいのはシモ-ヌ・ボ-ヴォワ-ル (1908-1986)がその著『第二の性』(1949)によって表わした思想である。まずその思想的背景を探ろう。 ヘーゲルはその著『精神現象学』で、「主人と奴隷の闘争」なるものを展開した。いわく、主人はなるほど奴隷を支配している。しかし主人の自意識はつねにその存在を証明する他者、すなわち奴隷を必要とする。そのため主人に自意識は逆に奴隷の存在に依存することになってしまう。ここに主人と奴隷の立場の逆転がうまれる。しかし有利な立場、すなわち主人の立場に成り上がった奴隷の自意識も今度は奴隷に成り下がったもと主人の存在に依存するようになる。こうして終わりのない主人と奴隷の相克が生まれるのである。ロシアの亡命哲学者アレクサンドル・コジェ-ブはこの「主人と奴隷の闘争」を軸にした『精神現象学』の解釈をフランスで講義した。かれはこの弁証法を、ハイデガ-の『存在と時間』の実存主義によって解釈した。 ハイデガーによれば、人間存在は世人das Man (主体性のない中性的な人間)となってしまっている。この世の中に投げ込まれている(世界-内-存在)たる人間(現存在)は自己の可能性へと自己を投げ返す(投企)ことで自己の真なる存在に自覚的となる。その契機となるのが日常にひそむ(自らが死を関わることと真実の生き方をしていないことに対する)不安=良心の声である。 ボ-ヴォワ-ルの夫でかつ思想的同志であったサルトル(1905-80) は、間接的にはこのハイデガ-の実存主義を、直接的にはコジェ-ブの解釈に影響を受けて、自己の実存主義を形成した。 彼によれば、実存するとは、脱自的、超越的なありかたで、自己がいまだあらぬ(無)ところのものであるかのように、また自己が現にあるところのものであらぬように、自己を成らせていくことである。対自 pour soi なる者(主)は他者である即自en soiなる者(奴)を眼差しによって客体化し、そこに自己の悪を投影する。欺瞞とは自己が自己実現へと参加するかわりに、即自的な客体へとなることである。束縛を契機として参加へ(アンガージュマン)ことこそ肝要である。 まとめてみるなら、実存主義は、人間の実在existereを自己のおかれた状況の外へexと立ち出でるsistere ことに見る。それゆえ絶えず自己が置かれた状況を超えていく自由を行使することにこそ実存主義の根本精神があるのである。(1905-80) との同志的夫婦関係 ボ-ヴォワ-ルの『第二の性』はこの実存主義の思想にもとづいて女性のもつあらゆる諸相を包括的に語ろうとしたものであった。 (注:ちなみにその構成を掲げよう。第一部:理論編 序言 1宿命 第1章生物学的条件 第2章精神分析の立場 第3章唯物史観の立場 2歴史 女の神話 文学に現れた女 第二部:体験編 女はこうしてつくられる 第1章幼年期 第2章若い娘 第3章性の入門 第4章同性愛の女 女はどう生きるか 第1章妻 第2章母 第3章社交生活 第4章娼婦と囲い女 第5章成熟期から老年へ 自由な女 第1章永遠の女性とは? 第2章ナルシスの女 第3章恋する女 第4章神秘家の女 第5章自由な女 結論) この大著でボ-ヴォワ-ルが主張したことは、人間社会においては対自的存在は男性であって、女性は即自的存在すなわち他者となってしまっているということであった。すなわち、男は他者としての役割を女に押付け、女も他者(客体)の役割を受け入れている。そこに彼女はおおきな欺瞞を見いだす。この欺瞞によって女性は女という男の対象物といての役割を与えられるのである。彼女は言う。「ひとは女に生まれない、女になるのだ。」 ボ-ヴォワ-ルによれば女性は月経・出産・育児などの非超越的で反復的な生理と仕事に縛られている。そこにはいかなる実存的な状況超越の動きもみられない。こうした束縛から自己を解放してこそ女性は真の実存となることができるのである。 ボ-ヴォワ-ルの『第二の性』はきわめて広範な影響を与えた。いまだにこれをこえる影響力をもった女性論は存在しないと言って過言ではないだろう。 しかしそれは同時に問題点も有しているように思われる。 まずそれがもっぱら白人ブルジョワ女性に焦点をあてていることも問題であろう。しかしそれ以上に重要なのは、ボ-ヴォワ-ルが説く超越的投企なるが、きわめて男性的な生き方であり、世界の能動的変革していこうとする野蛮なまでの意欲に充たされていることである。こうした生き方ははたして女性が、さらには現代の男性にとっても承認されるべきものなのであろうか。現に我々はこうした世界の能動的変革の結果の一つとして生態系の致命的な破壊をもたらしている。そしてそれと関連してボ-ヴォワ-ルは女性の月経・出産・育児を否定的なものとしてとらえている。(そのためであろうか、ボ-ヴォワ-ルは生涯こどもを持たなかった)。しかしむしろ女性のこうして特性にこそ新たな思想立脚点を探ることも可能なのである。(そうした思想といして我々は後でポストモダン・フェミニズムを考察することにする)。 だがそうした問題と欠陥を持ちながらも、この『第二の性』はいぜんとして有益で刺激的でかつきわめて包括的な女性論の古典であることを我々は認める必要があると思われる。 (6) ラディカル・フェミニズム アメリカでは、婦人参政権の獲得(1920年)の後にフェミニズム運動の停滞がみられた。こうした停滞を打破し、女性解放運動の再生の契機となったのがべティ・フリ-ダンの著作と活動であった。 ベティ・フリーダンはベストセラ-『女らしさの神話』(1963年)において、中流白人主婦のとらえようのない不満を描いた。「女らしくあれ」とする教育が実は女性の人間的成長を妨げていることをこの著作はするどく突いたのである。 この著作の発表のきっかけにしてフリ-ダンは実践的な女性解放運動へと飛び込んだ。それが彼女を中心としたNOW(National Organization for Women全米女性機構)の発足であった。 1965年合衆国では、公民権法第7項の修正、すなわち雇用における性差別の撤廃を入れるかどうかをめぐって連邦議会の攻防がおこなわれた。雇用機会均等委員会(EEOC)は弱腰であった。これに対して、1966年フリーダンを中心としてNOW(全米女性機構)結成されたのである。NOWはその設立目的として「男性との真のパートナーシップの中で、権利と義務を保持しつつ、今日のアメリカ社会の主流に女性を完全に参加させること」をうたった。こうして合衆国での女性解放運動は再生した。 そして活発となった女性解放運動において70年代に現われたのがラディカル・フェミニズムであった。 ラディカル・フェミニズムは、公民権運動・反戦運動・新左翼運動に参加し、その男性運動家の女性蔑視に憤った女性活動家によって始められた。そこには新左翼の理論、組織、個人的スタイルにたいする反発がみられた。公民権運動・反戦運動・新左翼運動は平等で平和な社会を理想としながらも、その成員内での著しい女性蔑視と差別を残していた。こうした矛盾は女性活動家に、はたしてこれらの運動が志向する政治的変革だけでこれらの女性差別・蔑視が解消されるのか、という疑問を生じさせたのであった。 ラディカル・フェミニズムの主張はつぎの5つにまとめることができる。 女性の個人的主観的問題は新左翼の問題(社会的正義・平和の問題)と同様の重要さをもつ。 個人的なもの(女性のおかれた抑圧的個人的状況)が政治的(女性をその性ゆえに抑圧する構造)である。 資本主義ではなく、家父長制(男性支配)こそが女性抑圧の根源である。 女性は従属的な階級・カーストであることを自覚すべきである。そしてこの性階級制と闘うべきである。 男の文化と異なる女性の文化こそ未来社会の基礎となるべきである。 このラディカル・フェミニズムの代表的論者とその著作を見ていこう。 ニューヨーク・ラディカル・フェミニストの「エゴの政治学」(1969年)。この歴史的文書では、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」なるものが徹底的にそのイデオロギーを暴露された。愛や結婚や家族はじつ女性抑圧の制度・装置にほかならず、女子はこの抑圧された役割に適合的な「女らしさ」なるものを学習させられているのである。それゆえ解放のためにはまず女性が自我に目覚めなくてはならないのである。 マルクス主義者グラムシとアルチュセールは、資本主義国家は自己を再生産するための装置として教会・教育・家族などの文化的装置をもち、イデオロギー上の覇権(ヘゲモニー)をにぎっていることを明らかにした。これと同様に、ケイト・ミレット『性の政治学』(1970年)は、女を従属的な地位にとどめる文化的な装置が存在することを暴露する。そうして文化装置として、彼女は文学(ポルノグラフィをふくむ)、家族、レイプを挙げている。 さらにシュラミス・ファイアーストーン『性の弁証法』(1971年)は、女性の抑圧の物質的基盤は経済ではなく、身体にある、という。女性の再生産機構、すなわち出産機能が、家父長制と、その支配イデオロギーたる性差別主義が構築される土台となった、性別分業の原因なのである。父と母と子から成る核家族こそが「家父長制」(男性による女性支配)のイデオロギーの刷り込みの場なのである。こうしたイデオロギー的家族を終わらせなばならない。そのためにはこれまでの家族に代えて、「有限契約世帯」(10人程からなり、その三分の一が子供で、その子供は血のつながらない子供をふくむ)をつくるべきである。また女性は男性に奪われた再生産手段の奪い返すすべきである。そのためには試験官受精・人工胎盤などを使って妊娠のバイパス(回避)し、出産と育児と結びついた性別分業の解消すべきである、と説くのである。また、いわゆる「愛」や「ロマンス」というのはの女性を麻痺させておくイデオロギ-的麻酔剤であるとする。そして男性の歪んだ文化を女性文化との統合によって癒してうえで、両者の統合をめざそうと、提言する。 (このファイア-スト-ンの議論は、あまりにテクノロジー依存しており、単純な生物学主義に陥っている。生物学的事実(セックス)がいかにして社会的現象(ジョンダー)となるかこそが問題である、と言えよう)。 ともかくこうしてかつての文化フェミニズムの議論は「家父長制」の概念とともに蘇ったのである。だがこのラディカル・フェミニズムの主張は、あまりに私的で文化的な領域に限定されすぎていた。またその「家父長制」の概念もあいまいであり、まだ「男性支配」を言い換えたものに留まっていた。こうした欠点を改めるべく登場したのが、後期マルクス主義フェミニズムであった。 (7) 後期マルクス主義フェミニズム 初期のマルクス主義フェミニズムは、男女差別の問題は経済的生産関係とその上部構造の政治的制度に還元しすぎた。それに対し、ラディカル・フェミニズムはイデオロギ-としての家父長制(男性支配)に差別の問題を還元する傾向があった。こうした問題をかかえた両者を統合し止揚しようとするのが、1980年代から登場してきた後期マルクス主義フェミニズムである。 後期マルクス主義フェミニズムは、資本制(資本主義制度)と家父長制が相互の独立したシステムであるとする。(これを「二重システム論」という)。マルクスが分析したように資本制においては資本は労働者の搾取によって剰余価値を得て自らを増殖させる。この労働者は家庭において生み育て(再生産)される。再生産の場で作用しているのは、精神分析のいう、エディプス・コンプレックスである。エディプス・コンプレックスによって核家族でこどもに対する男性あるいは女性の刷り込みがおこなわれる。つまり後期マルクス主義フェミニズムによれば、現在の社会体制は、労働と生産を支配する資本制と、労働の再生産を支配する家父長制の、妥協的結合から成っているわけである。 代表的な論者と著作には、ナタリーJ.ソコロフの『お金と愛情の間』、上野千鶴子『家父長制と家事労働』がある。 問題点としては、まずフロイドのエディプス・コンプレックスの概念の借用がある。 周知のように、フロイドによれば、エデイプス・コンプレックスは三歳から五歳の間に頂点に達する男根期に体験され、父親からの「去勢の脅迫」によって衰退し、潜伏期にはいる。つまり男の子は母親に対する欲望の道具としてのペニスの使用を禁止され、去勢の危機を経験する。こうして母との直接的な合一の欲望は抑圧される。この危機を経験したのち、思春期以降、自己を父に同一化し、父のもたらすさまざまな社会規範に従って、愛情の対象を見いだすようになっていく。(すなわち父のようになって母のような女を手に入れるようになる)。 しかしフロイドは女性のエディプス・コンプレックスの説明にはあまりに成功しているとは言いがたく、それゆえこの概念自体の有効性も問題視されてよい。家庭の育児において男と女がどのように分化してくるのかは、さらに研究する必要があるのである。 さらに問題として残るのは、相変わらず「家父長制」の概念があいまいな点である。二重システム論においては、女性の一つの性階級をなすとされるのだが、それじたい「階級」概念の不当な拡大である可能性が高いのである。(この点については瀬地山の上野批判を参照)。 (8) ポストモダン・フェミニズム フランスにおいてはボ-ヴォワ-ル以降、女性運動もさまざまな紆余曲折を経た。1979年11月にはフランス女性解放運動MLF(Mouvement de Ligeration des Femmes) が分裂した。直接の原因は、「政治と精神分析」(プシケポ)グループの商標登録による名称独占にあった。その結果、ボーボワール以来の平等主義による女権拡大派と、性差を重視する精神分析主義派、とにフランスの女性運動はわかれた。 こうした経緯の背景には、ボ-ヴォワ-ルの実存主義フェミニズムがきわめて女性の男性化を志向するものであることがしだいにあきらかとなり、それに対する疑問が増大していったということがあると思われる。 精神分析主義派に属するクリストヴァやイリガライのフェミニズムは、フランスのおいて1960年代後半から一世を風靡したポストモダンの思想の影響を受けている。この思想はフロイドの精神分析の新解釈を核としつつ、西洋近代の思想をとらえなおそうとするものであった。 フランスの精神分析家ジャック・ラカンは、フロイドのエディプス・コンプックスにたいして斬新な解釈を加えた。かれによれば子供は、つぎのような三段階のエディプス期を経験する。 母-子の二者関係の時期。この段階は相手のなかに自分を見出だす鏡像の段階である。子供は母親の欲望の対象、すなわち男根となろうとする。 父の禁止による三者関係がうまれる時期。子供の母親に対する欲望は禁止される。こうした禁止、すなわち法を告知するものとして現われるのが、象徴的父とそれを意味する「父の名」である。 エディプス解消期。子供は象徴的な「父の名」によって自己の欲望に名を与え、その欲望を諦める。子供の真の欲望は無意識に押しこめられる。この原抑圧を介して、言語を習得し、掟と秩序の世界である象徴界へと子供は参入していくのである。 ラカンの「父の名」のもとに告知される禁止(法)は、他の思想家によって西洋思想全体を規定するものとして理解された。その理解にもとづき、たとえばルイス・アルチュセ-ルは「イデオロギ-一般」を父なる神からの呼び声の応える人間という構造自体に求めたし、あるいはジャック・デリダは西洋思想のもつ音声としての論理(ロゴス)中心主義の暴露した。ポストモダンの思想とはすなわちこれまでの西洋近代を支配してきた思想の再検討を意味したのであった。 ジュリア・クリステヴァやリュース・イリガライはこうしたポストモダンの思想から影響をうけ、西洋思想じたいが男性的なものであることを暴露した。 J.クリステヴァ(1941~)は、「記号象徴態 le symbolique」、すなわち言語による秩序の世界に対して、「原記号態 le semiotique」、つまり記号象徴態によって押さえこまれているが、それを支え、時にはそれを混乱させつつ活性化する混沌として意味の世界があると主張する。そして彼女によれば、記号象徴態とは男の論理の世界にほかならず、原記号態とはエディプス前期の母子一体の世界である。これを彼女は「子宮空間」(コーラ)とよんでいる。 彼女によれば、エデイプス前期とは、まさにこの母子融合状態(コーラ)が母親がはたす「想像的父」によって「おぞましさ」として棄却(アブジエクション)され、子供は象徴的な世界に入っていく時期なのである。 こうした考えにもとづきクリステヴァは彼女の女性論「女の時間」(1979)を展開する。クリステヴァによれば、女のもつ時間とは、循環的時間と巨大な永遠の時間であり、それは女がもつ母性と生み育てるという再生産性の根ざしている。他方、歴史的時間とは、線条的時間であり、それは出発・進歩・到着といった表象をもつ、あくまでも連続的・線条的に発声される言葉の時間である。そしてまさにこれが男の時間にほかならない。 (ボヴォワ-ルのような)フェミニスト第一世代は平等主義を志向してきたが、それはまさに男の線条的時間において地位を得ようとしたのである。それに対して、1969年以降の第二世代は、男女の差を強調し、男の線条的時間を否定、循環的・巨大な時間に参入しようとする。だがきたるべき第三世代は、その二つつの時間性の併存を認め、統合する世代である。そこでは個人の差が自由な享受へと開かれことをめざすされる、というのである。すなわちクリステヴァは女性のもつ循環的・永遠の時間性と男性の線条的時間の共存を提唱するのである。 イリガライもまた、デリダの西洋の論理中心主義批判、すなわち「神の言葉、人間の理性、世界の理法、究極的な真理、万物の根拠」である論理ロゴスを第一存在とみなす、西洋思想の批判を継承する。彼女はこの「論理中心主義」をラカンの精神分析の影響のもとに「男根論理中心主義」とよびかえる。西洋の言語、形而上学、哲学史、資本制にはファルス(男根)へ向かう意志が潜んでいる、と主張するのである。 こうしてフランスのポストモダンの思想をフェミニズムの適用してこれらの思想はめざましい地平をひらきつつある。しかしこれはフランス思想全般のつうじてみられることであるが、これらのフェミニズム思想も著しい抽象性と思弁性をもっている。フランスの思想はもっぱら他人の業績をたくみに料理することが多い。とくにドイツ思想の消化ぶりは見事である。(たとえばヘ-ゲルやフッサ-ルやハイデッガ-の受容において)。しかしこうして消化されたものは、あまりに見事に整理され思弁的となりすぎていて、その思想を現実においていかに具体化するかという面において弱いようにおもわれる。思想は一見まとまりがわるく見えるところにこそ、現実との引っ掛かりがある場合が多く、それを整理したものからはうかがいしれない現実感が潜んでいる。そしてそこにこそその思想の発展していく契機がはらまれていることも多い。そうしたことは二番煎じの思想ではむずかしいし、ましてそれを受容する日本の三番煎じの「現代思想」には不可能なことなのである。 まとめ さてこうしてフェミニズム思想の重要なものをひととおり見てきた。その結果我々はつぎの三つの感想をもつ。 ひとつは、いまだ自由主義フェミニズムの思想はその有効性を失ってはいない、ということである。我々の近代国家がその理念を自由と平等に置いている限り、それは戦略的にも思想的にもいまだ健在である。しかしそれは女性の男性への同化を志向する運動であってはならない。というよりもあらゆる個人がその多様性を押し殺して抽象的主権者へと同化するよう自由主義は真の自由主義ではない。人々の多様性を、たとえば男性と女性との差異も、認めつつ相互にその自律性を認めあうそうした社会の倫理を我々は確立せねばならないのである。しかしそうした時、いわゆる「母性」とか「女性」なるものが、はたしてはっきりしたかたちで残るのかは疑問である。もっと多様なものへとほどけていく可能性は大である。それはちょうど「男性的」なるものが風化するのと平行するであろう。 しかしそうなる前に現在の男性支配を補強しているイデオロギーの批判は徹底しておこなわれなばならない。それはじつは「男性的なるもの」にしばられている男をも解放することにつながる。「家父長制」の概念はむしろ文芸批評の領域で用いられたものであるが、このフェミニズム的文芸批評はさらに文化全般の批判へと拡大されていくべきであろう。 だがそれと同時にこの「家父長制」の概念をさらに社会科学的な概念として陶冶していくことも不可欠である。現在のこの概念はあまりにイメ-ジに依存しており、いまだ社会科学的概念と言いがたいからである。 こうした両面作戦のはてに、性別や年齢をもつさまざまな個人が集う社会を我々は構想しうるであろう。
by takumi429
| 2005-01-02 15:14
| フェミニズム思想入門
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