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社会システム論(3)

社会システム論(3)
-- 自己組織化モデル--

 自己組織化モデル
サイバネティクス的システム論は、「形なき物質に出来合いのパターン(情報)を押しつけることで秩序を形成し、ネガティヴ・フィードバックによって安定的に制御していく」、というものであった。このサイバネティクス的システム論から、「ゆらぎをはらんだ物質の広がりのなかからポジティブ・フィードバックを通じて自ずと秩序が形成されダイナミックに変容していく」[現代思想1984.152頁]、という自己組織化システム論へと、システム論は近年転換しつつある。 このシステム論における転換の先鞭をつけたのが、丸山孫郎の「セカンド・サイバネティクス」である。
 かれはサイバネティクスにおいてネガティブ・フィードバックによる制御・統制のみが重視されのにつよい不満をもっていた。たとえば卵子の成長において構造は複雑化・発展するし、それがもつ情報量も増大する。しかるにネガティブ・フィードバックでは構造のもつ情報は維持、もしくは消失するのみで、けっして増大することはない。つまりネガティブ・フィードバックによるサイバネティクス・モデルでは、生物などにみられる構造生成はとらえられないのである。
そこでかれが構造生成にあたって目をつけたのが、ポジティブ・フィードバックである。かれは、ネガティブ・フィードバックによる逸脱解消的システムを「ファースト・サイバネティクス」とよび、ポジティブ・フィードバックによる逸脱増幅的な相互因果関係の研究を「セカンド・サイバネティクス」とよんだ。また逸脱解消的相互因果過程を「形態維持」とよび、逸脱増幅的相互因果過程を「形態生成」とよんだ。かれはポジティブ・フィードバックによって逸脱が増幅されることで、組織が複雑化し進化することを示唆し、あらたな自己生成的な、みずから生成し発展・変化していくシステムについての理論の可能性を示したのであった。
 だがこの外からの制御・介入によらない自己発展的なシステム論には、すでにみたように、アシュビーの「純粋な自己組織化の論理的不可能性」という問題がついてまわる。すなわち、システムが自分自身の組織を形成し、変化させていくことは、プログラムするものとされるものが一致することになり不可能である。Sというシステム(機械)が変化するには、つねにαという機械が付け加えられねばならないのである。つまり、サイバネティクス・モデルに従う限り、自己組織的なシステムについては語り得ないことになる。
 この問題を解決すべく考えられたのが、フェルスターの「ノイズからの秩序」およびアトラン「ノイズからの複雑性」である。かれらは、ネガティヴ・フィードバックによる閉じたサイバネティクス・システムの世界から脱出するために、プログラムの外のノイズ(外乱)のはたす能産的役割に注目した。
 また自分で自分を産出していくという循環の輪こそまさに創造的な進化をもたらす、という考えもある。それがマトゥラナとヴァレラのオートポエシス(自己産出)論である。かれらはみずからの神経組織の研究、およびイエルネNiels K.Jerneの免疫体系の研究からこの考えを引き出した。神経系のおいても免疫体系においても外部のものはそのまま認識されるのではなく、むしろ系のなかのネットワークのゆらぎとして認識される。われわれがすでにみたように、環境の多様性はシステム内の多様性を通してのみ把握される。いやより正確にいえば、このシステムはこれまで観察者によって決定されていた、環境とシステムとの境界をもたない。あくまでもシステム自体の自己再生産がその境界をうみだしていくのである。マトゥラナたちはこうしたシステムの自己言及性にシステムの展開の可能性をみるのである。
マトゥラナの定義によれば、「オートポエシス・システム」とは、
「次のような要素産出のネットとして定義できる。つまり、(1) 要素同士の相互作用をとおして、その要素自身を産出する当のネットを回帰的に生成・実現し、かつまた、(2)その要素自身が存在する空間において、そのネットの境界をも、その当のネットの実現に参与する要素として構成する、そういう要素の産出のネットとして定義できる。」 [Maturana1981.p.21]
ではこれらのシステム論は社会科学においていかに導入されているであろうか。
「ノイズからの秩序」という考えかたは、フランス系の学者によって受容されている。エドガール・モランは、『失われた範例』においてこの考えをかれの学問の主軸にすえ、さらにそれを『方法』という大著において展開しつつある。ジャック・アタリも『言葉と道具』においてこの概念を導入している。
ル-マンもオートポエシス論を積極的に自己の社会学に取り込みつつある。その際、マトゥラナやバレラが、社会システムの構成要素は個人というこれまたオートポエシスなシステムであるとする誤りを犯しているのにたいして、社会システムの構成要素はコミュニケーションであると規定している。彼によれば、このコミュニケーションは、伝達・情報・理解の統合体であるとされる。こうして社会システム論は、パーソンズの行為を構成要素する社会システム論から、コミュニケーションを構成要素とするオートポエシス的システム論への変革されるとしている。
ルーマンのこの大胆な提言はきわめて刺激的ではあるが、まだその成否を判断する段階ではないように思われる
日本においても、野中郁次郎『企業進化論』や今田高俊『自己組織性』などがこうしたシステム論の動向を取り入れようとしている。しかし前者は日本の経営者および経営学者の、何でも取り入れ使ってみよう、という貪欲さに感心させられるばかりである。後者は掛け声の大きさばかりが目立ち、実質的な理論の展開はほとんどみられない。
 またバレラのオートポエシス論をその源泉であるスペンサー=ブラウンの代数学にまでさかのぼって、社会システム論の刷新をめざしたのが、大沢真幸『行為の代数学』である。しかしそれは延々と自己言及・自己回帰性についてのべたもので、それが説く「第三の審級」の理論との接続が必然的なものとは思われない。(おそらく「第三の審級」の理論は、スペンサー=ブラウンの代数学を学ぶ以前に構想されたものであろう)。とにかく社会システム論としてはあまりに抽象的かつ無内容である。
 今後の我々の課題は、こうしたスローガンだおれにおわることではなく、社会の自己組織性に注目した社会システム論の可能性を、むしろ既存の諸理論との対話のなかから探ることにあると思われる。社会の自己組織化の理論として、われわれはすでに、マルクス主義的再生産論をもっているし、とりわけアルチュセール系のイデオロギー装置の理論をもっている。こうした理論とシステム論との対話から新しい社会システム論の可能性はうまれてくると思われる。
by takumi429 | 2005-02-01 15:32 | 社会システム論
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