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宗教社会学講義 第5・6回

第5回ナショナルジオグラフィック社製作『覆る聖書の常識』上映
第6回 古代ユダヤ教 のまとめ
創世記・出エジプト記によれば、
アブラハムが部族をひきいてウルを出てながい流浪ののちカナンにたどり着いた。
一時ユダヤ民族はエジプトにおりそこからモーゼにひきいられて30年の放浪の後、エリコを攻め込み定住した。
聖書考古学の新しい知見
ユダヤ民族は外からカナンの地に来たのではない。
都市王政の抑圧搾取を嫌った人々が、都市王政に反乱を起こし、山地に移り住んだ。
ユダヤ民族はずっとカナンの地にいた。
出エジプトはモーゼとわずかな人たちがエジプトから逃げてきたというにすぎない。しかし、モーゼがもたらしたヤハウェ神を、都市の圧政から逃げて山地にすんでいた人々には解放の神と受け取られた。彼らはこの外来の神を受け入れることで、自分たちの団結を固めようとした。

私見によるまとめ
かつて最も盛んだった都市王政のウルを出て、さらに、民衆全体が王の奴隷ともいえるエジプトから逃げてきた、という神話は、じつはカナン内部にあった王政と侵略者(海の民ペリシテ人)による支配から脱しようして、外来の神ヤハウェの名の下に団結して自らをイスラエルの民という宗教的アイデンティティーを創り上げた人々が、戦うべき対象、忌避すべき対象、逃れるべき対象として、東西の先進地の王政・王朝の名をかりて、カナンにおける王政・侵略者・支配者を弾劾したものにほかならなかった。

スェーデンの聖書考古学の学派は「ミニマリズム」を標榜して、聖書の記述を最小限しかみとめない。
しかし、その聖書考古学をもってしても、
エルサレムに巨大な城壁の跡があり、神殿が現在の岩のドーム(イスラムの聖所)のいちにあったようだ。さらに6つの部屋止めをもつ同じ様式の城門がカナンの各地にあり、外国の碑文にも、「ダビデの家」という記述がある、ことから、ダビデの名をもつ王朝が存在したことを、認めている。

文書資料説
J 神をヤハウェと呼ぶ。 遊牧民と交易収益が中心の南部の王朝の文書か?
H 神をエロヒームと呼ぶ。農耕の神(バール)など支配的だった北部(王朝)の文書か?
D 北部がアッシリアによって支配された後、国を立て直すために、倉庫の中から発見されたという形をとって、ユダ王国のヨシアがヤハウェ信仰を軸に国制引き締めをはかった(申命記改革)。そのときの神聖革命のために作成された文書。
P 新バビロニアによってユダ王国が滅亡し、バビロンに連行された(これを「捕囚」とよぶ)宗教者(祭司)たちが、バビロニアにあった創造神話などをヤハウェ信仰へと改変してまとめあげたもの。

イスラエルの内部は捕囚以前は多神教であった。ヤハウェは戦争の時に人々をまとめ鼓舞するために呼びかけ崇拝される神にすぎなかった。(このようなその時々の必要に応じて崇拝する信仰を「拝一神教」と呼ぶ)。しかし、ヨシア王とその周りの者たちは、アッシリアによる北部王朝の崩壊、エジプト王朝の興隆にはざまにあっての、ユヤダの国難を立て直すべく、「申命記改革」を断行した。しかし、バビロニアへ派兵を進めたエジプトのネコ王と戦い、ヨシア王はあっけなく破れ殺された(メギドの戦い)。
ヤハウェ神を中心とした申命記改革とその文書「申命記」を宙に浮いてしまった。

イスラエル北部では多神教信仰、とくに多産の神バールへの信仰盛んだった。それを厳しく批判しそのままでは国が滅びると告げてきたのが預言者たちであった。ヤハウェ神による罰としての国の崩壊、という図式は、南のユダ王国が崩壊したときにもてきおうされ、預言者はヤハウェ神はエジプトやバビロニアの軍隊をもあやつってユヤダに罰を与える、そうした世界神の地位を得るようになっていた。
その後、新バビロニアにより連行された祭司たちは、先進地バビロニアの神話を改変しながら、ヤハウェを絶対的で唯一の神へと昇格させ、その神観のもとにユダヤ民族の神話と歴史をまとめあげた。こうして、一神教としてのユダヤ教がうまれたのである。

預言書
イスラエル内部の階級対立 虐げられたイスラエル平民(債務奴隷)
他の神の崇拝(←多神教) 妬む神ヤハウェ
イザヤ書
第1イザヤ
第2イザヤ
第3イザヤ
13バベルの審判
エレミア書

by takumi429 | 2015-06-02 08:07 | 社会環境論
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