メディアの社会学をもとめて(1)学説史をふりかえって

メディアの社会学をもとめて
(1)学説史をふりかえって
Toward the Sociology of Media
(1) Through Review of Theories on the Media Change

勝又正直*
Masanao KATSUMATA

キーワード:メディアの変容、公共性、国民国家、環境世界
Key words:Media Change, Public, Nation-state, Environmental World

要約
今日、メディアの社会学はどうあるべきか。この論文はまずこれまでの代表的なメディアの社会学、(1)公共性論、(2)メディア論、(3)国民国家論を評論する。どの論者もメディアが現実を作っていくことに注目している。哲学的人間論によれば人間は環境を作り上げながらも、そこから抜け出していく。現代において、人間は多様なメディア空間を形成しながらそれを抜けだし、それを横断する。人間が多様な混在するメディア空間を作り上げながらそのメディア空間を横断することこそ、今日のメディア論が考察しなくてはならないものである。
Abstract
How should be the sociology of the media today? At first this article revues the conventional sociologies of the media dealing with (1)public sphere, (2) the media transformations and (3)nation state. All sociology recognizes that the media makes reality. According to the philosophical anthropology, the human being makes environment but escape from it. In the present age, the human beings make different media spaces and escape from them and cross one to anther. Today the sociology of the media must examine that human beings cross various coexisting media spaces that they create.

今日、メディアの社会学はどうあるべきなのだろうか。本稿の目的は、これまでのメディアを扱った代表的な議論を概観し、その上で、来るべきメディア社会学の課題と方向性を明らかにすることにある。
もともと、社会学とは、近代人による自己省察、すなわち、近代人による近代の把握とでもいうべき性格をもってきた。近代あるいは現代を、メディアmedia(コミュニケーションの媒介medium)の変容からとらえてきた研究者を、私たちは以下の三つの学派にまとめることができるだろう。
 
(1)公共性の変容を説く論者
 ハイデガーの弟子であり、ユダヤ人であった政治哲学者ハンナ・アレント(Hannah Arendt,1906~75)は、その著書、『人間の条件 The Human Condition』(1955)1)で、人間の活動力、すなわち人間を条件付けるさまざまな条件に人間が対処するための能力を次の三つに分けた。
1)労働labor:生命を維持するための活動力 (飲み食うことのための活動性)
2)仕事work:持久・永続するものをつくって自然とはことなる人工の世界を作り上げる活動力
3)活動action:人と人との間でおこなわれる唯一の活動力。おもに言葉を通じて互いを提示しあうこと
 アレントによれば、三番目の「活動」こそが人間本来の行為である。そして、この活動の場こそ、明るい光(人びとの注目)に照らされた公共の世界なのであり、政治の世界であった。
 たとえば、それは典型的にはギリシャの都市国家のアゴラ(広場) で体現されていた。またアレントの『革命について』(1963)2)によれば、政治とはまさに、活動が支配するような自由な公的空間の創造のことなのである。アメリカの独立戦争はそうした自由な空間の創出をめざした革命であり、それは、人民の必要のための独裁という形をとったフランス革命やその派生体である、ロシア革命とは一線を画するのである。
 スターリニズム(スターリンによるソ連の独裁)は、ナチズム(ヒットラーの独裁)同様に、人民の必要をかなえてやるという形でおこなわれた全体主義にほかならない。そこでは個人は全体(国家、民族、階級など)の構成部分として初めて存在意義があるとされる。スターリニズムもナチズムも、国家権力が個人の私生活にまで干渉し統制を加える体制、あるいはそれを是認する思想にほかならない。
 こうした全体主義の台頭は、すでにフランス革命にも見られたし、スターリニズムやナチズム以外にも見られるものである。すなわち、アレントにとって、近代への移行というのは、公共の世界が失われ、生きるための労働を重視し、人民を食わせてやるための国家が支配するようになったことである。それは人間の自然的な欲求に答えるような社会の支配の増大した時代であり、労働が支配する世界である。つまり近代(現代)とは、公的な活動の領域が消え去った「暗い時代」3)なのである。
 
 アレントの問題意識を継承したのが、ドイツの哲学者・社会学者ユルゲン・ハバーマス (Jurgen Habermas1929‐)であった。
 ハバーマスはいわゆるフランクフルト学派の中に育った。フランクフルト学派 の問題意識は、「理性の変容」とでもいうべきものであった。すなわち、本来、全体との対話的な調和をなしていた理性(真偽・善悪を識別する能力)が、目的のための手段を計算する道具的な理性へと堕落してしまった、と彼らは考える4)。
 ハバーマスはこのフランクフルト学派の問題意識を、「活動」の場としての公共の世界についてのアレントの理論と接合した。彼は、アレントの活動の場を、「生活世界」と言い直し、それを「システム的世界」に対置する。すなわち、「生活世界」とは、話し合いによって人びとが交流し合う世界であり、ここでの人びとの行為は、コミュニケーション的行為(話し合うこと)である。それに対して、「システム的世界」とは、企業や官僚などによって管理・支配された世界であり、ここでの人びとの行為は目的合理的な行為である5)。
 アレントは、全体主義によって活動の場、公共の世界が浸食されるのが、暗い時代(近代)の特質としたが、ハバーマスも同様に、近代とは、システム的世界が生活世界を浸食することであるとした。
 そのうえで、ハバーマスはコミュニケーション的行為の内実を掘り下げようとする6)。しかし、それは彼が構築すればするほど、きわめて理想主義的、非現実なものとなっていく。実際、ドイツの大学人同士の対話(討論)にすぎないものに見えてくる。アレントにあっては、地球上に生き、世界に住むのがひとりの人間ではなく複数の人間であるという事実、すなわち「複数性」(plurality)がきわめて重視されていたのに対して、ハバーマスの討論の世界は、高地ドイツ語(ドイツ語標準語)を使いこなすインテリの世界に堕してしまっているのである。

(2)メディア論者
 公共論者が公共の言説空間を問題にしているのに対して、メディアそのものの特質に着眼し、支配的なメディアの変遷に文化変容の原因を求める、一連のメディア論者がいる。
 ウォルター・オングは、声の文化と文字の文化を対置し、声の文化から文字の文化への変化を問題にした7)。
 オングによれば、声でしか表せない言葉が支配する文化、すなわち、声の文化においては、次のような心理学的な力学が働く。すなわち、①累加的で、②決まり文句を多用ししかもそれを分析しない、③冗長ないし、多弁で、④保守的ないし伝統的で、⑤人間的な生活空間への密着があり、⑥闘争的なトーンが顕著で、⑦感情移入的あるいは参加的で、客観的に距離をとらない傾向がみられ、⑧恒常性維持の傾向があり、⑨状況依存的であって、抽象的でない。
 これに対して、話し言葉が優位の文化から書き言葉が優位をなる文化、すなわち、対話の世界から筆記の世界へと文化が変化するにつれて、ことばが書かれたものとして実体化・客観化され、分析の対象となる。その結果、上記の心理的な力学はちょうど反対の傾向を持つようになる。すなわち、①繰り返さず、②分析的で、③簡潔で、④革新的で、⑤生活空間から隔離され、⑥闘争的なトーンがダウンし、⑦冷静で客観的に距離を置いた傾向がみられ、⑨変化へと向かっていき、⑨状況から独立した傾向、がみられるようになる。
このように、書くことは人々の意識を変えるのである。
 書き言葉の優位はとりわけ活字印刷の登場によって決定的となった。それまでの聴覚の優位の文化から視覚の優位へと変化していったとする。
 カナダのメディア論者、マーシャル・マクルーハンはこのオングの考えを用いて、華麗なしかししばしば理解困難なメディア論を展開した8)。
 
 ドイツ出身で南米で活躍したユダヤ系メディア論者のヴィレム・フルッサーは、オングやマクルーハンのメディア論をさらに展開整理しようとした。彼によれば、支配的コード(コミュニケーションのための、情報を表現する記号・符号の体系)が変化することで三つの時代を画することができる9)。
 フルッサーによれば、支配的コードには次の三つがある。
1)画像。すなわち、画像の諸要素が魔術的に互いに関係をもつ、意味のある平面のこと。
これが支配する時代では、イドラトリー(画像の諸要素を読むことはできるが、それらの要素から表象を読みとることができないこと、つまり偶像崇拝)がはびこる。
2)文字テキスト。すなわち、文字記号のつらなりであり、これは線形的(一筆書きのように一本の糸になっている)コードのことである。このコードが支配するところでは、テクストラトリー(テキストの文字記号を読むことができるにもかかわらず、その文字記号から概念を読みとることができないこと、つまりテキスト信仰)がはびこる。
3)テクノ画像。すなわち科学技術をつかった装置によって作り出される画像。たとえば、写真・テレビ・映画・ビデオがそれである。このコードが支配するところでは、人間は装置でゲームを行い、装置の機能の範囲で行動するいわば、「機能従事者」となる危険をはらんでいる。
 現代はまさにテクノ画像が支配する時代であり、そこでのコミュニケーションは、「円形劇場型言説」(円形劇場で上演される劇を観客が見ているようなコミュニケーションのあり方)の一方的な放射をうけた者たちの無意味なおしゃべり(ネット型対話)が支配している。つまりテレビなどのメディアから一方的に受けた情報で無意味なうわさ話をしている民衆という構図になっているのである。例えば、貧困な政策理念をパーフォーマンスでごまかす首相の振る舞いをテレビでみながら、彼の先妻や息子のことをうわさ話する大衆、というのはまさにこうした構図にふさわしコミュニケーションなわけである。
 こうした状況を打破するためには、テレビなどが提供する画像の意味を読み解くような、「テクノイマジネーション」が必要であるとフルッサーは説いたのであった。

(3)国民国家形成論者
国民国家はどのように形成されたのか。その問題意識の下、メディアに注目して目の覚めるような視覚を提示したのが、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』であった10)。
 アンダーソンによれば、「国民」とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であり、宗教的想像力が衰退した今日において、唯一、死を説明するものとなっている。
 それ以前にそうしたことができた文化システムは宗教共同体と王国であった。宗教共同体は真実語(ラテン語、アラビア語、中国語)によって結ばれた求心的・階序的秩序をなしていた。王国は周辺にいくほど主権はあせ、境界が不明瞭となるもので、現在の国民国家とは大きくことなるものであった。宗教共同体と王国を解体し、国民意識を目覚めさせることとなったのは、新聞や活字印刷物などのメディアであった。
 まずカトリック世界における秘儀化されたラテン語に取って代わる形で、宗教改革によって、俗語革命が起きた。まずルッター訳の聖書訳がベストセラーとなることで俗語が出版流通に乗り、それ以外の諸国でも俗語が出版されるようになった。俗語の流通によって俗語ごとに国民としての意識が高まり、新聞などによってそれが束ねられることになり、俗語をまとめそれに習熟した者がエリートとなることで国民国家の文化的なまとまりが作り上げられていった。
 日本でも日清・日露戦争の新聞報道によって日本は一体化した国民の意識を高揚させ、さらに新聞に掲載された小説が文化的に統一された読者層をつくりあげていったのである。まさに活字メディアが「日本国家」を形成していったのである。
 
(4)多様なメディア世界の混在論へ
さて以上のようなメディアの変容に着目する三つの学派の内容を簡単にみてきた。これらの学派に共通なことは、彼らがもはや、リップマンのような「現実の環境」とメディアがつくる「疑似環境」とを対置させるという発想11)をとっていないことである。どの論者も、「現実」なるものはメディアが作り出していることを認めている。そしてどのメディアが支配的になるかによって現実というものがどのように変容していくかを説いていると言えよう。
 ではこれらの学派の理論を批判的に乗り越えるために、我々がよって立つべきものはなんであろうか。それは、現代の我々がさまざまなメディアが作り上げるさまざまな「現実」の中に生きており、しかもそれを同時に享受したり横断したりしているという事実であろう。たとえば、コンピュータが新しいメディアとして私たちをつなぐとき、そこには新たな世界の創造の可能性が広がっている。しかしそれはコンピュータにとどまらず、むしろ新しいメディアが生まれるとき常に生じる可能性である。そして、メディアがもたらす新しい空間とそれまでの現実空間との重ね合わせから新たな世界を絶えず創造していくこと。これは人間の本質とも言えるものである。こうしたコンピュータの作る現実と他の現実との混在を「ミクストリアリティ」(Mixed Reality)とも呼ぶが、それはなにもコンピュータの作る現実にとどまるだけでなく、むしろ人間がもともと多様な世界を混在化させそこを横断的に生きていることの、ひとつの現れにすぎないとみるべきであろう。ここで我々は、このメディアによる世界の創造についての哲学的人間学の観点からみてみよう12)。
「哲学的人間学」とは20世紀の初頭、おもにドイツ語圏で展開された哲学思想である。
まずオーストリアの動物学者ユクスキュル(1864~1944)は次のような説を唱えた。すなわち、動物は自分の身体のまわり、すなわち環境(Umgebung)のなかから、自分にとって意味あるものを選び出し、それを知覚するとともに、それに働きかけつつ生きることで自分をとりまく世界を構築している。彼はこれを「環境世界」(Umwelt)と呼んだ。彼は生物体をあくまでもその固有の環境世界との「機能的円環」のうちで捉えなくてはならないと主張した13) (ユクスキュル1973)。
 現象学的哲学者シェーラー(Max Scheler 1874~1928)は、最後の著作『宇宙における人間の地位』において、彼の哲学的人間学をこのユスキュエルの環境世界論を基礎にして展開した。動物はその環境世界の構造に完全に閉鎖的に適合している。これを彼は動物の「世界繁縛性」と呼んだ。これに対して、人間は環境世界を独自の仕方で遠ざけ距離をとることで、もっと広大な自由な場面としての「世界」へと開かれている。これをシェーラーは人間の「世界開在性」と呼んだ14)(シェーラー1977)。
 おなじく哲学的人間学を構想したプレスナー(Hermut Plessner 1892~1985)は、動物は環境に拘束され「中心的」に生きるに対して、人間のありようは「脱中心的」であり、世界開放性をもつと主張した15) (ボルノウ/プレスナー2002)。
ポルトマン(Adolf Portmann 1897~1982)は、その著『人間はどこまで動物か』で、人間は一種の早生児として生まれ、確固たる環境適応本能をもたず、その代わりになる文化を発達させたのだとした16) (ポルトマン1961)。
 これらの動物学的・哲学的人間学の流れを受けて、ゲーレン(Arnold Gehlen1904~76)は、「負担免除説」を提唱した。彼によれば、人間は本能の後退により、可塑的で未定形な自己の行動のありかたと(それに関与する)不確定な環境世界の現れ方という負担を課せられている。これに対して人間は、固有な文化様式を発達させること(制度化)によって、その負担をみずから免除しようとするというのである(ゲーレン1970)17)。
つまりある種、豊穣だが、同時に危険きわまりない自然というものに対して、動物は本能で対応し、人間は文化で対応するということになる。本能によって選択される自然は、もともとの自然とは異なり、あくまでも本能によって対応され感知されるような単純化したものになっている。人間において本能の代わりに文化的制度がその役割をする。動物においては本能によって身体が直接的にその環境と接している、つまり身体が道具であるのに対して、人間は文化を自然と身体との間におくことができる。この文化の媒介によって人間は自然の複雑さを適応可能なものへと縮小している。だが文化は変容可能なものである。人間と自然との媒介(メディア)の発展、たとえば、鍬からパワーショベルへの変化は、人間にとっての環境世界を変えてしまう。そうして媒介する道具、装置、シンボル、言語などごとに別の世界をその周りに持ち、それを絶えず変えていくことができること、それが人間の本質なのである。
世界を表象し、人間を表象するメディアの変化は、人間の「環境世界」を変えていく。世界を限りなく変化させていくこと、その変化へと開かれているという性格こそ、人間の、動物とは異なる固有性なのである。
新しいメディアの誕生はそれによって絶えず新しい世界をもたらす。人間はそのメディアによって新しい空間に住まうのである。生き物はおよそそれにふさわしい「環境世界」をもっている。しかし人間は固定された環境世界から絶えず抜けだし新たな環境世界を構築しうる、脱中心的存在である。すなわちあたらしいメディアを手に入れるたびに人間は新たな世界を手に入れる。そしてまたこの多様なメディア世界をまさに横断的に生きていく存在でもあるのだ。多重的メディア世界を横断し、そこからさらに新しい世界を構築する、それはまさに人間の「世界開放性」あるいは「脱中心性」の証なのである。
いまや、メディアの社会学は、(1)こうしたメディアごとにことなる特性と論理がもたらす、多様な世界の形成、をとらえると同時に、(2)そうしてメディアが生み出した多様な世界を横断し混在させながら生きている我々自身をとらえなくてはならないのである。
[PR]
by takumi429 | 2006-01-13 13:44 | メディア社会学 | Comments(0)
<< メディア・アートの可能性をめぐって Cyberspace: the... >>