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地図の上の主体
---田山花袋作『田舎教師』を読む---
 勝 又 正 直
1. はじめに
 我が国のナショナリズム研究に大きな衝撃をもたらした『想像の共同体』(Anderson1983=1987)の中で、ベネディクト・アンダーソンはつぎのように語っている。
「十八世紀ヨーロッパにはじめて開花した二つの想像の様式、小説と新聞・・・これらの様式こそ国民という想像の共同体の性質を『表示』する技術的手段を提示した・・・」
(Anderson1983=1987:44)。
 これを承けて柄谷行人はつぎのように言う。
「明治維新は、ステートを作ったが、ネーションを形成しえなかった。・・・日本の明治において、本格的な意味でのナショナリズムを生み出したのは文学であり」、「ナショナリズムの中核は言文一致的な近代文学にある」(柄谷1994:23-40,240)。
 いわゆる「言文一致体」は、山田美妙や二葉亭四迷の先駆的試みのあと、田山花袋や島崎藤村らの自然主義文学において定着した。「言文一致的な近代文学」を最初に担ったのはこれら日本自然主義文学であった。
 ではこれら日本の自然主義文学は、「日本」という「想像の共同体」を、その作品において、具体的にはどのように「表示」し「生み出し」ているのであろうか。本稿は田山花袋の一作品を取り上げることで、その答えの一端を探ることにする。

2. 添えられた地図 ---問題の提示---
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 田山花袋は明治42(西暦1909)年10月に佐久良書房から書き下ろし作品『田舎教師』を出版した。この作品は、日本全土が日露戦争に沸き立つ頃、立身の夢も恋にも破れ国家の大事に加わることもできず結核でひっそりと死んでいった一地方の小学校代用教員、林清三の人生を描いた作品である。小説のモデルは小林秀三という実在の小学校代用教員である。小林は、明治34年(1901)から明治37年(1904)に結核でなくなるまで、日記をつけており、花袋はこの日記に彼の想像を加えてこの小説を書き上げた。今日この作品は島崎藤村の『破戒』とならんで、日本自然主義文学の代表作とみなされている。
 作品の舞台となったのは北関東の利根川流域である。花袋は『田舎教師』初版(田山1968a)の巻頭に北関東の三色刷り地図を添えている(地図1)。
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 小説に地図を添えるというのは、明治39年(1906)3月発表の『破戒』で、すでに島崎藤村がおこなっている手法である。しかしじつはそれより早く花袋は、小説ではないが、明治38年(1905)1月に博文館から出版した日露戦争の従軍日記、『第二軍従征日記』で、遼東半島の地図を添えるという試みをおこなっている。だからこの文学における地図の添付という手法は花袋の創意によるものとみてよいだろう(紅野1992:116-7、『第二軍従征日記』については後述する)。
 この地図について、田山花袋は回想録『東京の三十年』でこう証言している。
「巻頭に入れた地図は、足利で生まれ、熊谷、行田、弥勒、羽生、この狭い間にしか概してその足跡が到らなかった青年の一生ということを思わせたいと思って挿んだのであった」(田山1981:257-8)。
 しかしこの巻頭の地図の意味はどうもそれだけにとどまるものではないように思われる。むしろこの地図は、この小説を成立させている、ある視点(あるいはまなざし)を示唆しているように思われる。本稿では、この地図が小説の記述において、いかなる働きをしているのかを調べ、その意味を探りたい。
 だが作品の分析に移る前に、すこし回り道ではあるが、「地図」というものがいかなる意図をもつものとしてこのころ登場してきたのかを、おそらく小学校代用教員だった小林秀三も使ったであろうこの頃の小学校地理教科書の変遷から、探ってみたいと思う。

3. 地図のまなざし
 小林秀三が埼玉県の弥勒(みろく)の高等小学校に勤務していたのは明治34年から37年(1901-4)である。じつは明治37年に小学校の教科書は文部省検定から国定に切り替えられている。
 この検定時代の地理の教科書から国定地理教科書への、記述のあり方の変遷はたいへん興味深いものがある。
 教科書検定制度は明治19年(1886)に始まっている。検定時代のほとんどの教科書は、日本の各地の地誌を述べるにあたって、じつは東京からでなく、平安京(京都)のある「畿内」から記述を始めていた。そうしてそのあと「東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、北海道」という具合に、京都からのびる道の区分でそのほかの地域を述べていくのが通例であった。
 たとえば、「明治30年代に入ってからの地理教科書を代表するものの一つ」(海後編1965:671)である、明治31年1月初版、明治34年11月改訂4版、同年12月文部省検定済の文学社の『修正 新定地誌』という教科書をみてみよう。
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 「第一篇日本地理総論」の「第四 一畿・八道・台湾」では、「山と海とのありさまによりて、全國を十部に大別す。畿内・東海・東山・北陸・山陰・山陽・西海・北海の一畿・八道と台湾とこれなり。而して、さらにこの一畿・八道を八十五國に分てり。その名左のごとし」として「畿内 五國 山城 大和 河内 和泉 摂津」といった具合に記述が進んでいく(海後編1965:279)。
 さらに「第五 道廳・府・縣」では「畿内・八道および八十五國の区分は、自然の地勢によりて定められたものなれど、別に府縣とて、政治上の便宜によりて定めたる区分あり」として、各道府県を列挙している(海後編1965:280-1)。
 つまり行政区分としての府県よりも昔ながらの國の区分のほうが自然とされ、行政区分の府県はまだ絶対視されていないのである。
 「第二篇 日本地理各道誌」では「第一 畿内」から記述は始まっており、そこから「第二 東海道」、「第三 東山道」と続いていく。東京はこの「第二 東海道」のなかの「都会」の記述の一部でしかない。つまり東京は、まだ畿内とりわけ京都を出発点とした東海道のなかの一点にすぎない。ここではまだ東京が日本の中心としての位置を与えられているとは言いがたい。
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 これが明治33年10月発行、同年12月改訂再版、明治34年1月検定済の普及舎の『小学地理』になると、記述は「第一章 第一 東京(東京府上)」から始まるようになる。東京の記述も「天皇陛下は、東京の宮城におわします」として、東京を帝都として位置づけ、その記述もより充実したものとなっている。
 しかしそのあとの記述は、各県の全体像を語るのではなく、その県の名所や旧跡や有名な山河を見出しにして並べている。「第二 小笠原(東京府下)、第三 利根川
(千葉縣)、・・・第十一 伊勢大神宮(三重縣上)、第二章 第一 京都(京都府上)、・・・第三章 第一 琵琶湖(滋賀縣)・・・」といった具合である。 さし絵も、東京の「二重橋」に始まり、名古屋の「金の鯱(しゃちほこ)」、京都の「金閣寺」といった、絵葉書に使われそうなものばかりである。

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『小学地理巻一』(海後1965:211
 記述の仕方は「生徒の興味を引くために旅行体の記述を試みている」(海後編1965:670)。すなわち東京から各地方へ旅行する記述のスタイルである。これは京都を出発点にして各道をたどって記述する以前のスタイルと大差はない。
 また本文の上には「上総」とか「武蔵」などの國の名前がつねに記してある。道府県という行政上の区分に対して、古くからの國の区分はまだ強く
残っているのである。
 こうした検定時代の教科書と比べて、明治36年10月に発行され(翌年4月から使われ)た文部省の『小学地理』(第1期 国定地理教科書)は画期的なものであった。
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 記述はまず「関東地方」からはじまる。つぎに、東海地方ではなく、「奥羽地方」、「本州中部地方」へと記述は進んでいく。
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 東京市のさし絵は、普及社の『小学地理』のさし絵のように宮城二重橋を描くだけでなく、この宮城二重橋からの天皇出御の行列の絵となっている。
 ちなみに明治になってから天皇は盛んに行幸した。とりわけ「六大巡幸」と呼ばれる明治5年(1872)から明治18年(1885)にかけての行幸は天皇の存在を全国に知らしめ、それまでの分権的封建国家から中央集権国家への転換を印象づけるものになった。
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 このさし絵の与えるイメージはこうした行幸が東京の宮城から出発しているというイメージである。つまり東京のもつ中心性は、行政のみならず、天皇を中心とした神聖性の中心として確固たるものとして、生徒の脳裏に刷り込まれていくのである。  以前の教科書にみられた旧来の「道」と「國」による地誌は、「府県をもとにした地誌に改められている。・・・府県の地誌は初めに位置を明らかにし、川や山の著名なものをあげ、鉄道をあげて都市に及び、交通路、産物、名所等について叙述してある」(海後編1965:674)。
 さてこの国定教科書の特徴は、なんと言ってもさし絵を減らして地図を多用したことであった。
「初めの総論のところではアジヤの近傍地域を入れた日本全図を掲げ、各地方総論のところにはその地方全図を入れ、各府県のところに府県地図を加えている。各地方全図においては濃淡をもって土地の高低を示し、主要な水系を記し、克明に府県庁所在地名と鉄道路線を記入してある。府県地図には本文に出ている地名をすべて入れ、河川、湖、山、鉄道路線を入れてある」(海後編1965:674)。
 従来の教科書のさし絵はその水平の視線で「お國」ごとの名所・旧跡・特産をしめしていた。それにたいして、国定教科書の地図は上からの見下ろす垂直の視線によって、中央からの行政単位(県や府など)の位置と領域を確定する。その視線は、それまでの「國」に分かれていた諸地域を、宮城のある東京を中心とした編成へとまとめあげる。国定地理教科書は、諸地方を、東京を中心とした視線の下に、地理的な平面においてとらえる。いわばここには諸地域を見るまなざしの転換、すなわちさし絵のもつ横からのまなざしから、地図のもつ見おろすまなざしへの転換、があったと言えよう。すくなくとも国定地理教科書では、地理学的な地図は、こうした中央からの見おろすまなざしをもつものとして、登場してきたのである。

 ところでこの国定地理教科書の編集を助言した人物に、山崎直方(なおまさ)という者がいる(海後編1965:673)。山崎直方(1870-1929)は1895年東京帝国大学理科大学地質学科を卒業後ドイツに留学し近代地理学を学び、帰国後、東京帝国大学理科大学の初代地理学講座の教授となった人物である。山崎はまた東京高等師範学校の佐藤伝蔵とともに『大日本地誌』全十巻(明治36年(1903)~大正4年(1915))という画期的な地誌を編纂したことでも有名である。
 この『大日本地誌』の第一巻は『関東編』(山崎・佐藤編1903)から始まっており、出版されたのが明治36年である。その後、第二巻『奥羽』、第三巻『中部』と続いて刊行されていった。この『地誌』の地域を扱う順番も国定地理教科書の地域を扱う順番とまったく同じである。
 この『大日本地誌』を出版したのは博文館という出版社であり、明治32年以来その編集部にいたのが、田山花袋であった(小林高寿1967)。花袋の自伝的著作『東京の三十年』にはこうある。
「『大日本地誌』の編輯の手伝いを私は明治36年から始めた。・・・私は山崎君、佐藤君から地理に対する科学的研究の方法を教えられたことを感謝せずにはいられない」(田山1981:239)。
では花袋が山崎たちから学んだと言う「地理に対する科学的研究の方法」とは、具体的にはどのようなものとして花袋の小説に現れているのだろうか。

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by takumi429 | 2007-05-02 21:53 | 田山花袋研究 | Comments(0)
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