以下の内容は大阪の看護師たちの自発的勉強会「楽学舎」の10周年記念シンポジュウムで勝又が話した内容を増補改訂したものである。
楽学舎のみなさん、お久しぶりです 。 皆さんの前で看護理論について話してからもう8年が過ぎてしまいました。 あれから今日に至るまで何をしていたかというとから、じつはこれと言ったこともせず、毎日ぼう然と暮らしていました。 ですが、あえて何をやっていたかというと、「ナラティヴ・セラピー」というカウンセリングについての勉強会を名古屋でやっていました。 ナラティヴというのは「物語り」のことです。心理の問題を抱えた人の多くが、自分を虐げるような物語の中に自分を置いていることがじつは多い。そういう人が生き生きと自分を解放できるようなのびやかな物語りを話し合いながら一緒に編み出していこう、あるいはクライエントが生み出すのを手伝っていこうというのが、「ナラティヴ・セラピー」に対する、私のつたない理解です 。 そこで私が疑問に思ってきたのは、そういった新しい物語りはどんな風に生まれてくるのか、そのきっかけというか、端緒というものはどういうものなのか、ということです。 そんなことを思っていたところ、たまたま知り合いの手術看護婦の方(Tさんとしておきましょう)からある話を聞きました。今日はその話でもしてお話に代えたいと思います。 Tさんはもともとは病院の窓口で働いていたようで、30歳になってから看護婦に転身した人です。おかげでというか、どうも看護の空気になじめないでいるようです。 ある日、初老の女性患者を術前訪問しました。彼女は糖尿病の悪化で片足を切断する手術を受けることになっていました。てきぱきと質問と説明をできないTさんに対して、患者は一時間の長きにわたって物語ったそうです。 途中、師長から呼び出しがあり、師長いわく「遊んでいるかと思った」とのこと。「だって患者さんはやっぱり不安だからついつい長く話すでしょ」とTさん。 「なるほど、そうだろうね」と私。「でもそのひとは『不安』なんていう言葉をその人は使っていたの?」。「うん、たしかに『不安』ていう言葉は使ってなかった」。しばし考えていたTさん、「そういえば、『足に悪いことをした』って言ってたわ」。 私は思わず、口をぽかんと開けてしまいました。でも気を取り直して、「それからどんなことを言ってたの?」。「ふん」とTさんは考えて、「『私は昔から病気と付き合ってきた、お父さんの看病や義理のお母さんの看病やら、ずっとしてきた』と言ってたわ」。「それで?」。「ふん」、Tさんはだまりこんでしまいました。「じゃ、思い出したらまた教えて」と私は言いました。 後日、Tさんからメールがありました。「あれからずっと思い出そうとしたんだけど何も思い出せません。私は一体一時間も何を聞いていたんでしょう」。 この患者の話に私がこだわったのは「足に悪いことをした」という言い方の意外さでした。これはいったいどんな意味があるのでしょう。 まず問題を外堀から埋めていくことにしましょう。 Tさんを呼びつけて看護特有の嫌みを言った師長は術前訪問としてどんなことを考えていたのでしょうか。 おそらく手術に関わるいくつかの質問項目をてきぱきと聞き出すということを考えていたのでしょう。同時にこの術前訪問は、「これからあなたはこれこれの手術を受けることになる、覚悟せよ」という宣告にもなっているのでしょう。 患者の状態は質問の項目だけ切り取られ、後は手術の予告があるのであって、じつは「患者(うだうだした)話を聞く場ではない」とされているのでしょう。 ここでは患者は、手術という、生物機械への「修理」の観点からだけとらえられ、そのための質問用紙に転写されているわけです。 それに対してTさんはどうでしょうか。Tさんの頭の中には、「手術前の人間は不安のためにさまざまな訴えをするものだ」という考えがあります。ですから患者の訴えをみんな「不安」あるいは「不安のなせる業」という箱の中に放り込んでしまいました。 よく外国語で話しかけられた時のことを思い出すと経験することなのですが、日本語ではなんと言ったかは言えるのだけど、その外国人が外国語で実際にはなんて言ったかは思い出せないということがあります。日本語に翻訳されると元の言葉は忘れてしまうのです。 Tさんの話もそれに似ています。Tさんは患者の話した話を次から次へと「不安」という言葉に翻訳してしまったためにかんじんの元の「語り」を忘れてしまったのです。 でもTさんが新米でしかも「看護ずれ」していない手術看護婦だったの幸いしたのかもしれません。患者の話を真に受けてしまう、そのナイーブさが、患者の「語り」を引き出すことに成功したのかもしれません。 さて、患者が言った「病気とずっとつきあってきた」という言い方をしていました。ここでは病気はつきあう相手、つまり人間のようなものにたとえられています。すなわち擬人法というレトリックが使われているわけです。擬人法は、人でないものをひとのように見立てることです。似ているということをつかって、「見立てる」こと、つまり「~を・・・として見る」ということは「隠喩」(メタファー)と言います。だから擬人法は隠喩の一種です 。 ここでは、これまで病人の看病をしてきたという経験と、これから糖尿病がもたらした片足切断によって障害者として生きて行かなくてはならないという未来とが、「病気とつきあう」という擬人化によってくくられています。つまり「病人の看護」と「障害を持ちつつ生きていく」とがともに「病気とつきあう」という言葉でくくられているわけです。 こうすることで患者はこれまでの過去を、病気とつきあう人生という形で整理して、これからの障害者として生きていく未来とを連続するものとしてつないでいるのです。 レトリックは言葉によって人を説得する術のことです。メタファーもそうしたレトリックのひとつです。しかしレトリックは他人を説得するだけではありません。この患者の場合には、自分を、今後の障害者としての人生を、自分に納得させるために、このレトリック使われているわけです。 さて、問題の「足に悪いことをした」という表現はどうでしょうか。 「悪いことをした」とか「すまないことをした」とか言われるのは、あくまでも人間に対してです。ですから、ここでは足は人間のようにとらえられています。つまりここでも擬人化がなされているわけです。 「悪いことをした」というのはどういう意味でしょうか。おそらく片足切断という状況になるまで糖尿病の治療を十分にしてこなかった。だから今回の切断は、ある意味、自業自得なのだと、自分に納得させようとしているのでしょう。 では、まるで人格があるかのように「足」について語るのにはどんな意味があるのでしょうか。 実はここで私が思い出したのは、井上ひさしさんの「しみじみ日本・乃木大将」というお芝居です。このお芝居では、乃木大将の軍馬3頭と近くの牝馬2頭が、「人格」ならぬ「馬格分裂」を起こし、各々前足と後足に分かれて、乃木大将のその時々の場面を演じ、乃木大将という人物を語るという趣向になっています。「足に悪いことをした」と言った瞬間、足は別の人格を持つものとして患者に相対しています。それは患者とは別のものです。つまり患者はすでに、自分とは分離し別個のものとなった足のことを考えているのです。つまり、片足が切断された後の状態を患者はこの喩え(擬人化)で知らず知らずのうちに、先取りしようとしていたのもしれないと考えられるのです。 こうして、片足切断の手術を直前に控えた患者は、「足に悪いことをした」というレトリック(たとえをつかった説得の方法)によって、片足喪失の状況を生き抜いていく自分の物語りを紡ぎ出していくのです。切断される自分の足を別個の意思をもつ者にたとえることで、足をこれからなくすという話から、足を喪失して後その状況を生き抜いていく話へと、患者をつつむ物語りは転換していき、足の擬人化(たとえ)はその転換の接続点となっているといえるでしょう。 こうしてみると、私たちが自分を立て直す新しい物語りを作るとき、メタファー(見立て)はその新しい物語生成の核(種)となっていくのではないか、とも考えられるのです。 ここですこし一般的な話をしてみましょう。 私たちが事態のとらえ方は実はあまり多様ではありません。じつは自分の体で経験したわずかなパターンを使い回しているだけかもしれません。そのとき私たちは、慣れない事態を見立て(メタファー)によって慣れ親しんだパターンに還元していることがしばしばです。 それがメタファーとも気づかないほど当たり前になって言い回しはいっぱいあります。 たとえば、「男に捨てられた」というような言い回しはしばしばありますが、「捨てる」ことができるのは品物です。そこでは「私」は使い捨てされる「品物」に喩え(見立て)られています。さらに「捨てる」という言葉の連想から「さんざんいいように使っておいて、ボロぞうきんのようにポイと捨てた」という具合にどんどん隠喩の中で連想が展開していってお話を作っていきます(こういうメタファーの展開のことをアレゴリーといいます) 。「別れた」を「捨てられた」と見立てることで、男女の別れ話は、品物を使い捨てる話へと移しかえられていきます。つまり男女の別れの話(概念体系)が、ものを捨てる話(概念体系)へと写し取られています。その写し取り(写像)の端緒となったのは、「別れる」という事態を「捨てられた」というたとえ(メタファー)で語ったことにあります。そうすることで二人の別れの話は、ものを捨てる話へと写し取られて、ものを使い捨てる話(概念体系)のなかで理解されていきます。 レイコフという言語学者はメタファー(隠喩)を「ある概念を別の概念と関係づけることによって、一方を他方で理解する」するという頭の働かせかたであるとしています。そしてAの概念体系の要素(たとえば「別れ」)をBの概念体系の要素(「捨てる」)に対応させ(写像し)、さらにその写像をさらにどんどんして、Aの概念体系とBの概念体系が対応されることを「概念メタファー」と呼んでいます 。 私たちが実感を込めて経験的に理解できることというのは実は限られています。私たちはそのままでは理解しがたい事態を、すでに慣れ親しんだお話へと移しかえ、それを展開していくことで、そのままではなかなか理解できないような事態を、理解できるものへと変えていくのです。 私たちが慣れ親しんでいる常套句(クリシェ)はこうした陳腐な喩えによるすり替えに満ちています。しかしこうした陳腐な言い回しによるありふれた物語りの圧政の下で虐げれている自分がいます。そのとき、それまでとは違う喩え(見立て)をすることで、自分を別の物語りへと解放していくことが求められるのかもしれません。 しばしば「夫婦の絆」という言い方がされます。「絆」とはもともとは「動物をつなぎとめる綱」のことだったそうです。本来はメタファーです。でももうそれを意識しないほど当たり前になった言い方です。しかしその喩えで考えるかぎり、夫婦の関係は強固で、それを失った者は、まるで「糸の切れたたこ」みたいに思えてくるでしょう。でももしここで誰かが夫婦なんて「ポスト・イットみたいなもんよ」と言い出したらどうでしょうか。この喩えは夫婦に対するまるで違った見方をもたらすかもしれません。 陳腐でそれだけに逃れがたい物語りのくびきから逃れるために、人はたとえ(メタファー)をつかい、それを種にして新たな物語りを生成していくのではないのだろうか。片足切断の手術を目前にした患者の一言から私はそんなことを考えます。 ではこうしたメタファーについてナラティヴ・セラピーではどのようにあつかわれているのでしょうか。家族療法の代表的な学会誌『Family Process』 に「メタファーを聞く」という興味深い論文が載っています 。 メタファーというのは、ホワイトが遺糞症をスニーキー・プーと名付けて外在化し有名な事例に見られるように、決して家族療法では注目されてこなったことではありませんでした。しかし家族員たちがみずから語るメタファーについてはこれまであまり注目されてきませんでした。しかし著者たちは言います。「私たちの考えでは、メタファーは、思考の物語様式の最も小さい単位であり、家族の「世界制作」の行為を定め保持する意味の多義性の織物への理想的な入り口点である。」(Fam Proc 36:341, 1997) そして著者たちは、「家族が生み出すメタファーを使ってカウンセリングしていく7つのステップ」なるものを提唱しています。そこでは患者が何気なく行ったメタファーにカウンセラーが気づき、それを押し広げて、家族員全体を巻き込んだお話へと展開していくことが提案されています。 これはまさにメタファーが概念体系から別の概念体系への写像であり、別の概念体系のなかでアレゴリーによって話を展開することを言っているにほかなりません。 レイコフと同じように、著者たちは言います。「物語りが作られるのは、そして私たちの文脈でいうなら、私たちの環境に人間的な形と意味が与えられるのは、おもに、メタファーをつうじてなのである。」 ところで概念体系から概念体系への写像を考えてみると、それは必ずしも言語の概念体系から言語の概念体系への写像とは限らないでしょう。言語から絵画への写像もあるでしょうし、言語体系から身振り体系への写像もありえるわけです。 そこで興味深いのは著者たちがあげている二番目の症例です。家族は、母エレンと娘7歳、11歳の息子と5歳の息子からなります。離婚した父は再婚。母親は自殺未遂で重傷し回復して退院しています。ここでは、メタファーは5歳の息子の絵です。その絵では、噴火する火山のふもとで助けてと叫ぶ怪獣がかかれています。この絵が家族と彼の言葉にしがたい状態のメタファーなわけです。カウンセラーはこの絵をめぐっての家族員に会話を展開させていきます。そうするうちに、この5歳の男の子は絵を書き変えていき、それはしだいに穏やかな絵へと変わっていったというのです。 メタファーは言語的なものとはかぎらないのです。 この症例を読んで、私はある修士論文であげられていた事例を思い出しました。その論文は保健婦について研究したものでした。保健婦が体験した事例として次のようなものがありました。まずそのまま読んでみましょう。 「医療器具をつけている幼児のIちゃんは言葉で話すことはできないが、行動によって生命維持としての生活を表現する場面がみられた。 アンパンマンのビデオを見ていた時のことである。急にIちゃんが倒れた。研究者はIちゃんの具合が急に悪くなったのかと驚き、「どうしたんですか?」と母親にたずねた。 すると母親は『アンパンマンが倒れると、倒れて気管切開の所をはずすの。アンパンマンが助けられると(顔をつけかえてもらう場面)元気になるの。』と答えた。 Iちゃんは気道が狭窄しており、吸引が必要なため、気管切開術を受けている。Iちゃんはアンパンマンが助けられると、母親に気管切開の所をつけてもらい、立ちあがり、ぱちぱちと拍手した。Iちゃんはアンパンマンが元気ない状態を、気管切開の所がはずれてしまい元気がないことにたとえて表現している。Iちゃんは、気管切開は生命を維持する大切な部分だと感じている。」 ここではどういうことが起きているのでしょうか。呼吸器をはずして苦しくなるIちゃんの事態がアンパンマンの困窮に移しかえられています。なぜそんなことをIちゃんはするのでしょうか。Iちゃんは呼吸器をはずしては生きていけないかわいそうな子である、そういうお話がIちゃんに与えられています。しかしアンパンマンは顔を取り替えることで元気になりバイキンマンをやっつける英雄となります。こちらの話では(呼吸の)苦しみは次の復活と活躍の前段階でしかありません。呼吸器なしではいきられないというIちゃんのこれまでの否定的なお話は、苦しみから復活して活躍するという肯定的な勇気あるお話へと移しかえられているのです。つまりアンパンマンが苦しんでいる時に自分の呼吸器をはずすして、自分の苦しみとアンパンマンの困窮を対応させる、つまり自分の苦しみのメタファーとしてアンパンマンの困窮を対応させるという、ちょっと大げさ言えば命がけのメタファーがここでは行われているのです。 もちろん、このメタファーは身振りとマンガの絵という、非言語的なものです。それはまだ物語にはなりきってはいません。あたらしい物語を作るには、その周りの人々が、アンパンマンが元気になったように、Iちゃんも呼吸器をつけて活躍するんだね、というようなことを言って、そのメタファーを物語として展開する必要はあるかもしれません。しかしともかくも新たな物語の種はIちゃん自身によって撒かれたのです。 あたらしい物語はどのように立ち現れてくるのかというのが私の疑問でした。それは思いがけない隠喩(メタファー)の形をとって、それを種(核)として立ち現れてくるのではないのか。いま私が予想しているのはそんなことです。ひとまず私の話はここまでとします。
by takumi429
| 2007-05-04 10:51
| 物語論
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