4. 逆説としての近代 ヴェーバー(2)

補足:逆転の構図 言及された小説から
 その際この倒錯に至る逆説的な発展とでも言うべきものが、この著作で言及されている2つの小説を比較することでよく見えてます。
 この論文のなかではヴェーバーは、プロテスタントの精神をうまく表した小説としてヴァニアンの『天路歴程』(1678) という小説を挙げています。この小説は滅びに予定されている都市に住んでいることを知った信徒が救いを求めて遍歴を続け、さまざまな誘惑と困難を乗り越えて天国へと行くという話だ。途中、信徒は「正直」と言う名の者と知り合い、仲間となってともに天国へと向かう。 
 さてこの小説に関して、ヴェーバーはゴットフリート・ケラーという作家の「三人の櫛細工人」という小説を思い出すと言っています。
 ケラー(Gottfried Keller1819‐90)という作家はスイスのゲーテと呼ばれた作家です。。
「三人の櫛細工人」という小説はスイス人の生活をユーモアをこめて批判的に扱った短編集《ゼルトウィーラの人々》(第1巻1856,第2巻1874)に納められています。
 この小説ではあるごうつくばりの櫛細工の親方のもとにいる三人の櫛細工人たちのことを描いています。職人たちは動きが取れない冬が終わると、このごうつくばりの親方のもとを去って遍歴していくのが常でした。しかしここにきまじめな三人の職人が登場する。彼らは親方にこき使われてろくなものも食べされられなくてもただもうまじめに働き小金をため込んでいる。職人をこき使って儲け、図に乗ったあげくの果てに散財してしまった親方は三人に親方株を売ることを持ちかける。三人は親方株を買うために小金をもっている高慢なハイミスをめぐって争奪戦を演じる。結局だれが彼女をものにするか決めるために、町はずれから町の親方の家まで競争することになる。スタートの時にハイミスは勝ってほしくない職人をわざと誘惑して出遅れさせた。出遅れた職人はゴールに向かうより彼女をものにしてしまった方が早いことに気づき、そうする。それに気づきもせず先にスタートした二人はお互いに相手を引っ張ったりこづいたりあげくのはてに殴り合いながらゴールを通過してついには町はずれまで駆けていく。二人がゴールに気づかず去った後に、ハイミスをものにした職人が親方の家に勝利者として入っていった。敗者となった職人のひとりは首をつり、もうひとりは失踪。親方になった職人は女房の尻に敷かれた人生を送ることになった、そういう話です。
 ヴェーバーは『天路歴程』の巡礼者が二人して話しながら天国へと向かっていく箇所が、この「三人の櫛細工人」を思い起こさせると書いています。
 『天路歴程』では二人の巡礼者が協力しあって天国というゴールにたどり着きます。『天路歴程』の19世紀の版にはつぎのような双六の絵のようなものが付いています。巡礼は渦巻きになって、最後は中心の天国で上がりとなります。
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「三人の櫛細工人」ではどうでしょうか。二人の職人は町の中心の親方の家を目指しています。しかしお互い妨害しながら進んでいったために、ゴールを通り過ぎてしまい、町はずれまで行ってしまうのです。
 こうしてみるとこの二つの話が、まるで写真のポジとネガのような関係になっていることが分かります。『天路歴程』では宗教心にみちた二人が語り合って中心に向かっていくのに対して、「三人の櫛細工人」では目的、それも本当の目的から離れ手段を目的と勘違いした目的をめざして、互いに足を引っ張り合いながら駆けていく。
 『天路歴程』から「三人の櫛細工人」への転換。それはどうして起こったのか。この逆転を説明することにこの作品はじつはなっているのです。

2.非合理による合理化
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でヴェーバーは資本主義を構成する資本家と労働者の成立を語りました。しかし資本主義が支配的となった近代の社会生活全般を明らにしたわけではありません。それをどのようにヴェーバーはとらえたのでしょうか。
 
(1)使用価値と交換価値
近代生活全般をヴェーバーがとらえる時にヒントになったと思われるのは、私見によればまたしてもマルクスです。
 マルクスは商品交換が全般的になるにつれて、個々人にとってのものの価値、すなわち「使用価値」ではなく、そのものがどれくらいの金額で交換されるかという「交換価値」が品物の価値を決定するようになると言いました。すなわち個々人の価値(使用価値)とは別の価値(交換価値)の体系ができあがっており、その価値(交換価値)の体系があることで市場経済が成立しているのです。
 個人の観点からみたら、交換価値というのは、時には「理にあわない」(不合理)もののこともあります。例えば、先祖代々大事にしてきた掛け軸が、二束三文の値段しかつかないこともあります。農地改革 の時にただ同然で手に入れた土地が都市化で急に億の値段がつくこともあります。
 このように個々人や個々の場合から見ると「理に合わない」、「ぴったりしない」けれどもそれがあることでさまざまな処理ができるような体系として法律の体系があります。
Aさんが人を殺したのとBさんが人を殺したのとは、もちろん別の事柄です。それぞれ別の事情があるでしょう。個人の側からみると事情をよく吟味して罰するべきでしょう。いわば「大岡裁き」というのがそれです。でもそれは、Aさんの時は無罪放免、Bさんの時は磔獄門という結果を招きかねません。このようにいつもその事情ごとに罰し方が違っていたら、なんら規則や決まりというものが作れなくなってしまい、社会生活というものはずいぶん不安定なものになってしまうでしょう。ひとまずどちらも「殺人」という名でくくり、その罰則の幅を決めておいて、そのうえで事情を考慮するというのが、近代の法体系のあり方です。
 同じようにAさんとBさんが別れるのと、CさんとDさんが別れのとは、もちろん別の事柄です。しかしひとまず「離婚」という言葉でくくってそれから対応するのが法律のやり方です。(かつて『クレーマー・クレーマー』という離婚をあつかった映画がありました。圧巻は法廷の論争シーンでした。夫婦の個人的な悩みや問題が法律の「言葉」で表現されるとき、まるで身を切られるような残酷さを持っているのをそれはみごとに表していました)。
 掛け軸を持っているのと、金の延べ棒を持っているのとは同じではありません。しかしどちらも「所有」という見方でくくることでその権利を保障しているからこそ、人びとは安心して売買(交換)ができるのです。持っているものによって急に取り上げられてしまうようになったら不安で売買なんかできません。
 法律の体系は、社会のさまざま事柄を、法律の言葉でくくり、それを処理する体系です。
貨幣(交換価値)の体系も法律の体系も、個々の、本来ならば「同じ」とはみなすことのできない物事を、「同じ」とみなしくくることで、機能しているのです。
 ヴェーバーは、個々の事例にふさわしい「合理性」を「実質合理性」とよび、個々の事例を共通なものとして形式的にくくるような合理性を「形式合理性」とよびました。

(2)「音楽社会学」
この問題を集中的にヴェーバーが考察したのは、「音楽社会学」という論文です。
この論文は題名から想像されるような、音楽と社会の関係をあつかった論文ではありません。この論文では一貫して、音階の比例分割、つまり有理数(合理数)による分割という問題があつかわれています。
 もともと音楽は数学や天文学と同列の学問だとされてきました。それは音階というものが有理数(分数)で作られるからです。(たとえば、一つの弦を1/2にすると1オクターブ音が高くなり、2/3にすると、ドの音がソの音の高さになるのです)。
 ところがどの音から分数によって音階を作っていくかによって、じつは音階は微妙にずれてきます。出発点の音によって音階は本当はその度ごとに作り直さなくてはいけなくなります。弦楽器や管楽器ならばそれは微調整できます。しかしオルガンやピアノやギターなど音が固定された楽器ではそうはいかなくなります。転調のごとに別の楽器を使うわけにもいきません。(ピアノやギターがふつうオーケストラに入っていないのはおそらくそれが理由でしょう)。
 この問題を、西洋ではオクターブを一二等分することで解決しました。だがその際、音階を分割するのは、もはや分数(有理数)ではなく、無理数なのです。これを「平均律音階」といいます。ピアノやオルガンなどはこの音律に調律されています。これによって自由な転調ができるようになりました。つまりハ長調のラの音はヘ長調のレの音と同じとされるようになったのです。だがその結果、平均律音階の音はどれも、本来の有理数による音階から少しずつずれているのです。
 「有理数」(分数 a rational number)というのは直訳すれば「合理的な数」のことです。それに対して「無理数」(an irrational number) 、つまり「非合理な数」です。つまり西洋の音階は、無理数(非合理数)で音階を分割するという、「非合理性」の導入によって成立したのです。

(3)形式合理性の世界
 その本来の問題解決からみたら「非合理」と思えるものを導入することで西洋の「合理性」は成立し、各領 域は自律的(合理的)体系をなしているのです。たとえば貨幣の体系は、個々の「使用価値」を無視しそれからみたら「理に合わない」、「交換価値」の自律的体系としてたち現れています。また法体系は、個々の実状をいったん捨象することでその実律的、形式的かつ普遍的な体系となっています。たとえAの殺人とBの殺人は個別的なことなのに、ひとまず「殺人」としてくくります。それぞれに実状にあわせて裁判することを「カーディー裁判」といいます。しかしそれでは場合によって判決が違ってきて、計算(予測)可能性がなくなり、資本主義的経営がなりたたなくなります。
 おそらくマルクスの「使用価値」と「交換価値」に対応するものとして、ヴェーバーは「実質合理性」と「形式合理性」という言葉をつくりあげたと思われます。この合理性の体系でもっとも重要なのは、貨幣体系と法体系です。しかしそのほかの領域もそれぞれに自律的に(つまり他の領域や人間本来の目的からの合理性を無視して)展開され完結しているとヴェーバーはみていたようです。
 非合理性を媒介にして形式合理のさまざまな体系が自律的に展開する、それがヴェーバーの近代観です。そうしたばらばらになったさまざまな領域の体系のなかにあって、その分裂を一手に引き受けまとめ上げるべきものとされるのが、個々人の「人格」なのです。
 禁欲的に自分の幸福からみると非合理に過ぎない労働に邁進する近代人は、同時に分裂した近代にあって統合をめざす唯一の拠点として緊張にさらされているのです。
 宗教的禁欲主義が世俗的な資本主義を生み出し、非合理を媒介にして自律的形式的に合理化した諸領域が発展していく。ヴェーバーの近代とはこうした逆説的な発展が生み出したものにほかならないのです。
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by takumi429 | 2010-12-14 01:59 | 社会学入門 | Comments(0)
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