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2.初期映画

Ⅱ 初期映画

前回の参照アドレス追加
http://web.inter.nl.net/users/anima/optical/index.htm
http://web.inter.nl.net/users/anima/chronoph/index.htm

覗き見と見せ物からの出発
1.エジソン
エジソンとイーストマンエジソン(右)の映画への興味は生涯つづき、現在35mmフィルムとよばれるものを開発したり、世界最初の映画スタジオも開設した。コダック社の創始者イーストマン(左)とともに、映画の技術的な発展をささえた。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2004. (C) 1993-2003 Microsoft Corporation. All rights reserved. Culver Pictures
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1880年代まで、科学者の関心は主として映画撮影技術よりも写真の開発にむいていた。しかし、アメリカの発明家エジソンは、ニュージャージー州ウエストオレンジの研究所の近くに、ブラック・マリアとよばれるタール紙の小屋をたて、そこを映画の実験所、および世界最初の映画スタジオとして利用した。のぞき眼鏡(めがね)式のキネトスコープを最初に考案したのは、一般にはエジソンだと思われているが、実際は、彼のアシスタントをつとめた発明家のウィリアム・ディクソンが実験のほとんどを担当したのである。
http://www.soi.wide.ad.jp/class/20010004/slides/06/13.html

ディクソンは今日でも使用されているスプロケットを考案した。これはフィルムのパーフォレーションとかみあい、フィルムをうごかす歯車である。また、彼はすでに1889年に、初期のトーキーの製造にも成功していた。91年にエジソンが特許をとったキネトスコープは、両端をつないでエンドレスにした約15mのフィルムをつかい、映像を拡大してスクリーンにうつしだしてみせる装置で、93年に完成、初上映している。94年、ニューヨーク市の店にコインで作動する映写機が導入され、その年のうちに、ロンドンとベルリンとパリに同じような店が登場した。
Black Maria

〈エジソン作品〉
「くしゃみの記録」(1894年)

「アーウィンとライスの接吻」(1900年)

(なおイギリスではウィリアム・フリース=グリーン(1855~1921)が1889年に撮影機を発明している)。


2.スクラダノフスキー兄弟
ドイツではマックス(1863~1939)とエミール(1859~1945)のスクラダノフスキー兄弟が1895年11月1日に「ビオスコープ」の上映に成功している。
http://www.acmi.net.au/AIC/SKLADANOWSKY_BIO.html http://www.preussen-chronik.de/person.jsp?key=Person_Max_Skladanowskyコダック社のセルローズのフイルムによって連続投射可能になった。スクラダノフスキー兄弟の作品は主に縁日やサーカスでの見せ物を撮ってみせていることに注意。

3.ルミエール兄弟
Association Frères Lumière世界初の映画「水をかけられた撒水夫」1895年12月28日、パリのグラン・キャプシーヌでリュミエール兄弟が上映した世界最初の映画のひとつ。この「水をかけられた撤水夫」は、ただ動きを記録しただけの実写ではなく、明らかに観客をわらわせることを意図した、世界で最初の喜劇映画でもある。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2004. (C) 1993-2003 Microsoft Corporation. All rights reserved.
エジソンのキネトスコープと幻灯機とをむすびつけて、うごく画像を投影し、一度に何人もの人がみられるようにする実験は、アメリカとヨーロッパで同時に進行していた。1895年に、フランスのリュミエール兄弟が、プリンター、カメラ、映写機をかねたシネマトグラフを発表した。

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リュミエール兄弟のシネマトグラフ
2人は続々と工場からでてくる労働者、岸にうちよせる波、芝に水をやる庭師など、人々の日常的な動きを撮影した短編映画で大きな成功をおさめた。2人の製作した映画で人々にもっとも強烈な印象をあたえたのは、郵便列車が観客のほうに突進してくる映像で、観客がおどろいて後ずさりしたという。
明らかに劇場向けの凝った映画が、アメリカのエジソンのスタジオで製作され、サーカスの芸人、ダンサー、俳優などがカメラの前で芸を披露した。このころになると装置の規格化がすすみ、こうした映画はたちまち世界じゅうでみられるようになった。

リュミエール兄弟作品
「工場の出口」(1895年) 「赤ん坊の食事」(1895年)(左はオーギュスト・リュミエール)
ルミエールの作品は見せ物でなく、日常生活を撮影し、それを上映する。
上映ではいったん静止画を見せてから動画に移行して観客の驚きをさそった。
「ラ・シオタ駅への列車の到着」(1897年) 「カード遊び」(1896年)http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/BIRTH%20OF%20MOVIE%201%20FATHER.htm

4.メリエス
1896年、フランスの奇術師ジョルジュ・メリエスは、映画がたんに生活を記録するだけでなく、作者の考えをつたえるものにもなることを証明した。彼が製作した一連のフィルムは、この新しい媒体による表現の可能性を探求するものとなり、やがて1巻ものの映画が誕生した。99年、パリ郊外のスタジオでメリエスは、フランス陸軍将校アルフレッド・ドレフュス(→ ドレフュス事件)の審理のようすを10のシーンにわけて再構成した映画と、20のシーンからなる「シンデレラ」(1900)をつくった。
しかし、彼の名を歴史にのこした代表的な作品は、ファンタジー「月世界旅行」(1902)である。この映画で彼は、トリック撮影の可能性を切りひらいた。撮影の途中でカメラを停止し、背景をかえてから撮影を再開すると、画面から物がきえたようにみえることに気づいた。また、フィルムを少しまきもどしてから次のシーンを撮影すると、重ね撮り、二重露出、ディゾルブ(ある場面がフェードアウトし、それと重なりながら次の場面がフェードインすること)ができることもわかった。こうした短編映画はたちまち大衆にうけいれられ、世界各国で上映された。今みると珍奇な作品でしかないが、初期の映画では、テクニックの面でもスタイルの面でも、先駆的かつ重要な作品であった。
参照 http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/BIRTH%20OF%20MOVIE%202%20MELIESS.htm

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奇術(見せ物)としての映画
メリエス Georges Méliès 1861~1938 
Ⅰ プロローグ
映画誕生期をかざるパイオニア。スクリーンに上映するかたちの映画を発明したのはリュミエール兄弟だが、その映画にさまざまなストーリーと撮影トリックを導入して現在の映画の原型をつくり、「光の錬金術師」(チャップリン)とよばれたのはジョルジュ・メリエスである。裕福な靴職人の次男としてパリに生まれ、家業をつぐことを期待されていたが、ロンドンへの留学がもとで魔術にのめりこみ、1888年には家業をすてて、ロベール・ウーダン劇場を買収し、魔術に専念した。
II 魔術を実現するための映画
メリエスにとっての映画は、みずから演じる魔術の限界をこえるものとして生まれた。1895年12月28日、リュミエール兄弟による最初の映画の商業公開に参加したメリエスは、自分の劇場の新しい出し物として映画を導入することを決心し、翌年から製作、監督、脚本、俳優、美術などを1人でこなすかたちで映画をとり、自分の劇場の出し物の一部として上映した。メリエスの映画が頂点をむかえるのは1900年から05年ごろである。「一人オーケストラ」「ジャン・ダルク」「蛹(さなぎ)と蝶」「ゴム頭の男」「月世界旅行」「ガリバー旅行紀」「音楽狂」「妖精たちの王国」などの傑作において、メリエス本人が主役を演じ、カメラ停止、二重焼き、多重露光、オーバーラップ、高速撮影などあらゆるトリックを発明した。
III 自作のフィルムを焼却
しかし1905年ごろから映画は産業へと移行し、パテやゴーモンはプロデューサーとして作品ごとに監督、俳優などを起用し、大きなスタジオで撮影する新しいシステムを導入した。内容的にも、人々の関心はメリエス流の魔術映画から、アクションやストーリーものにうつってきた。メリエスは経済的な危機をむかえ、12年にパテの資本で「極地征服」などをとるがまったく評価されず、映画活動を停止し、所蔵する映画をやきすてた。その後、一時期映画界からはわすれさられていたが、25年ごろから映画史家たちが彼の偉大さを再発見し、レジオン・ドヌール勲章をうけるなど、ふたたび世に知られる存在となった。製作した500本余りの映画のうち、現在のこっているのは断片もふくめて170本程度である。
(C) 1993-2003 Microsoft Corporation. All rights reserved.

まとめ
映画は見せ物としてはじまった。見せ物であるためには、見せ物を撮る必要はなかった。映画装置を通じて日常が平面投影写真の連続として再現されることに人びとは興奮した。見せ物であることの追求としてさまざまな映画のテクニックが進化したが、やがて映画が物語の形式に移っていくとともに、そうしてトリック映画はおき去られた。トリックは、物語の自然さをこわさないように隠れたものになるようになる。映画の見せ物としての性格は今でものこっている。だが見せ物性でなく、見ることの驚きこそが、映画の根幹にあるものである。
by takumi429 | 2007-06-04 01:16 | 映画史講義
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