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3.映画の父 グリフィス

3.映画の父 グリフィス (他のサイトより)

1912年にはイタリアで717本の映画がつくられ、世界でもっとも映画が発達した国だった。アメリカのプロデューサーたちは、イタリアに刺激されて活動しはじめた。彼らは長編映画の製作、監督の芸術的な自由、俳優の名前の表示などを要求した。俳優の中には、すでに大衆の人気を獲得しつつある者もいたのである。こうした要求がかなえられた結果、アメリカ映画は経済的にも芸術的にも大きく発展した。

D.W.グリフィス
D.W.グリフィス 草創期のアメリカ映画のプロデューサー、監督。D.W.グリフィス(1875~1948)は、映画といえば短編しかなかった1910年代に、意欲的な長編大作「国民の創生」(1915)や「イントレランス」(1916)を生みだし、映画の芸術的な発展の道を開いた。また、スター・システムの確立、クローズアップの創案、シーン単位ではなくカット単位の撮影・編集方法など、以後の映画のあり方を決定づける刷新をはたし、「映画の父」とよばれることになった。
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初期のサイレント映画の時代に映画の芸術性を高めるうえで大きな功績があったのは、アメリカのプロデューサー兼監督のグリフィスである。1908年にニューヨーク市のバイオグラフ・スタジオで撮影した「ドリーの冒険」で、グリフィスはそれまでに発達してきた映画製作の技術からの脱却をこころみた。カメラの機能を生かして、重要な演技になるとカメラをまわしはじめ、その演技がおわったとたん撮影をやめたのである。彼はまた、カメラを俳優に接近させることによって情感をもりあげた。当時は、画面いっぱいに2つの目や手がうつしだされると、観客はそれが何であるか理解できないと考えられていたが、グリフィスはその常識を無視し、強烈な印象をあたえるためにクローズアップを利用した最初の監督だった。

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"America's Sweetheart"Mary Pickford
グリフィスは自らやとった俳優の一団を訓練し、彼らの能力をのばした。その中には、メアリー・ピックフォード(Mary Pickford 1892~1979 初期アメリカ映画時代、少女役で人気を博したスター女優)、ライオネル・バリモア、リリアン・ギッシュのような後年のスターもいた。
さらにグリフィスは、ライティングやカメラ・アングルやフィルターなどで実験的な試みにも手をそめ、独特の効果をえようとした。また、1つのシーンをいくつかのショットに分解し、各ショットの時間を調節して徐々に興奮をもりあげたり、流れをリズミカルにするなど、それまでの映画にはなかった効果を生みだした。こうしてグリフィスは、映画による表現の基礎は編集であり、編集の単位はシーンではなくショットであることを明らかにしたのである。

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リリアン・ギッシュ Lillian Gish 1896~1993 アメリカの女優リリアン・ギッシュは、「国民の創生」(1915)や「イントレランス」(1916)をはじめD.W.グリフィス監督による数多くのサイレント映画に主演した。グリフィスは、彼女の表現力にとんだ表情をはっきりとらえるためにクローズ・アップ技法を完成させたといわれる。以後、ギッシュは、トーキー映画や舞台でも活躍し、映画「八月の鯨」(1987)では91歳で主役を演じて話題になった。

1913年、グリフィスは4巻からなる最初の大作「ベッスリアの女王」を完成させた。バイオグラフ社の重役たちはこの映画が長すぎるのに腹をたて、長編映画が普及した14年まで上映しなかったという。グリフィスはその間にバイオグラフ社をさり、カリフォルニア州ハリウッドのミューチュアル社にはいって、南北戦争(1861~65)をえがいた12巻の長編映画「国民の創生」(1915)にとりかかった。これは映画史において傑作の名に値する最初の作品であり、映画が芸術になったことをつげるものだった。
「国民の創生」はみる者を強くひきこむ力をもっており、観客はすっかり魅了された。戦闘のスペクタクルが、人間のおりなすドラマと融合していた。しかし、この映画ではクー・クラックス・クランが好意的にえがかれており、アフリカ系アメリカ人を揶揄(やゆ)した人種差別的な箇所があったため、当初から物議をかもした。封切りの際には暴動がおこり、今日でもなお論議の的となっている。
グリフィスの次の映画「イントレランス」(1916)は、しばしば映画史上の最高傑作といわれる。この壮大な歴史劇では、ことなる時代の4つの物語が同時に展開し、ほとんどほかに匹敵するもののない視覚的な効果によって観客の感情をゆさぶりながら、1つの物語から別の物語へと転換してゆく。

D.W.グリフィス (エンカルタより)

Iプロローグ
グリフィス David Wark Griffith 1875~1948 「映画の父」とよばれるアメリカの映画監督。映画作りの新しい基準を確立したことで知られている。
IIアメリカ映画の父
ケンタッキー州ラ・グランジに生まれ、地元の学校でまなんだのち、舞台俳優をへて、1908年にバイオグラフ社の映画俳優となった。やがて監督に転じて、ニューヨークやカリフォルニアで映画を制作。同社では450本以上の短編を監督し、メアリー・ピックフォード、ギッシュ姉妹、メイベル・ノーマンド、メエ・マーシュ、ウォーレス・リードなどのそうそうたる俳優や、監督のマック・セネット、シュトロハイムなど多くの人材を育成した。また伝説的なカメラマンのビリー・ビッツァーとも多くの作品をつくっている。
III本格的な長編劇映画の創造
1913年、バイオグラフ社からリライアンス・マジェスティック・スタジオにうつり、その後独立して「ベッスリアの女王」(1914)、「国民の創生」(1915)、「イントレランス」(1916)などの作品により、当時の第一線監督とみなされるようになった。
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http://chemistry.mtu.edu/~pcharles/GISH/dwg.html
「国民の創生」は長編映画というだけではなく、ハリウッドのスター・システムを確立した点で、映画史上に重要な意味をもつと考えられている。また、この作品は人種差別的な要素をもっていたために、抗議行動や暴動などをひきおこし、映画のもつ影響力の大きさをみせつけた。これを機に映画の検閲の法律がつくられるようになる。
4つの物語が並行的に展開される大作「イントレランス」は、興行的には成功しなかったが、その後の映画芸術の発展に大きな影響をあたえた。
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IV映画のテクニックを完成
グリフィスが登場するまで、1巻以上のフィルムをつかう映画はほとんどなく、エピソードをならべただけで筋もなく、撮影、演技、編集のどれをとっても貧弱なものだった。これに対してグリフィスは、数時間にもわたる長編作品を生み、劇的な状況や生き生きとした人物をとりいれながら、映画作りにかかせないたくみなテクニックを完成させた。たとえば、カメラを近づけて登場人物や事物を強調するクローズアップ、あるシーンを徐々に暗くしていきながら別のシーンにうつるフェイドの技法、過去のシーンをみせて筋立てや登場人物の心理をわかりやすくするフラッシュバック、同時におこっている出来事を並行的に編集してサスペンスをもりあげるクロス・カッティングなどである。
1920年には、映画俳優のダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、チャップリンとともに、長編映画を製作するユナイテッド・アーティスツを設立し、同社で「散り行く花」(1919)、「東への道」(1920)、「嵐の孤児」(1922)、「アメリカ」(1924)、「男女の戦」(1928)、「心の歌」(1929)などを製作した。「心の歌」をのぞいたすべてはサイレント映画であり、2本のトーキー映画「世界の英雄」(1930)と「ザ・ストラッグル」(1931)は、どちらもサイレント作品ほどの成功はみなかった。

参考文献
リリアン ギッシュ (著), アン ピンチョット (著), 鈴木 圭介 (翻訳)
『リリアン・ギッシュ自伝―映画とグリフィスと私』筑摩書房 (1990/08)
掛け値なしにおもしろい感動的な自伝。映画創世記の人々の意気込みがみごとに描かれている。グリュフィスたちが映画を世界言語とみなし、情熱を傾けていたことがわかる。
by takumi429 | 2007-06-07 01:19 | 映画史講義
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