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5.世界言語としてのドタバタ喜劇

5.世界言語としてのドタバタ喜劇(slapstick comedy)
(以下は、百科事典からの引用。「映画の社会学」の他の章も同様である)。
ハリウッドへの移動
1915年から20年にかけて、アメリカの各地に豪華な映画館、ムービー・パレスがたてられた。映画産業はしだいに東部からハリウッドへとうつり、その地に根を生やすようになった。ハリウッドでは、トーマス・インス、セシル・B.デミル、マック・セネットのような独立したプロデューサーが、自分のスタジオを設立した。インスはユニット・システムを導入した。これにより映画製作は分業化され、各ユニットのマネジャーが同時に別々の映画を製作することが可能となった。年間に何百本もの映画がスタジオで製作され、しだいに高まる劇場の要求にこたえた。そうした映画の大半は、西部劇、スラプスティック(ドタバタ)喜劇、それにグロリア・スワンソンが主演し、デミルが監督した「男性と女性」(1919)など、上品でロマンティックなメロドラマだった。インスは動きのある非情な西部劇が得意で、とくに人気のあるカウボーイ・スター、ウィリアム・ハートの主演する作品を多く手がけた。
サイレント・コメディ
マック・セネットは、コメディの王様として知られるようになった。ひじょうに人気の高かった「キーストン・コップス(警察官)」(キーストンはセネットが設立した会社)を主役として、想像力あふれる一連のスラプスティック喜劇を製作したのである。
セネットの喜劇のスタイルはボードビル、サーカス、漫画、パントマイムの要素をかねそなえた、まったく新しいものだった。彼はタイミングをはかることがうまく、目のくらむようなスピードでフィルムをまわしつづけた。セネットはかつてこう語っている。30mたらずのフィルム、あるいは1分の間にギャグの種をまき、そだて、しあげることができる、と。セネットには、芸術家の素質をのばす環境をつくる才能もあった。彼のひきいる俳優の集団には、マリー・ドレスラー、メイベル・ノーマンド、ファッティ・アーバックル、それにイギリス人コメディアンのチャップリンがいた。

チャップリンの出演する映画は、ほとんどが成功をおさめた。チャップリンはまさに国際的な映画スターとよべる最初の人物であり、生きながら伝説の人となった。チャップリンの「小柄な浮浪者」のキャラクターは、まさにアイドルのような人気をあつめ、きわめて幅のひろい演技によって喜劇の中に風刺や悲哀、だれにもわかる人情などをえがいてみせた。この「小男」とよばれたキャラクターを、「チャップリンの浮浪者」(1915)、「チャップリンの勇敢」(1917)、「キッド」(1921)、「黄金狂時代」(1925)といった作品を通じてそだて、きわめて幅のひろいキャラクターとした。
チャップリンはトーキーの時代になっても自分の映画のプロデュース、監督、主演をつづけ、なかでも「街の灯」(1931)、「独裁者」(1940)、「殺人狂時代」(1947)、は注目すべき作品だった。1919年、チャップリンはグリフィスおよび人気スターのメアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクスとともに最初のユナイテッド・アーティスツ社を設立し、スター・システムの先駆けとなるとともに、アメリカにおけるサイレント映画の黄金時代をきずいた。
1920年代、コメディ映画は黄金時代をむかえていた。ハロルド・ロイドとバスター・キートンというアメリカの2人の主要なコメディアンの作品は、1巻ものの時代からスラプスティック喜劇の伝統を直接うけついでいた。そこにチャップリンがくわわり、このジャンルはますます人気になっていった。この期間、3人のコメディアンは独特のキャラクターをつくりあげ、演技に磨きをかけた。キートンはけっしてわらわず、「キートンの探偵学入門(忍術キートン)」(1924)などでは、無表情な顔と、おどろくほど敏捷な動きをする体との、視覚的ギャグのコントラストをみせた。ハロルド・ロイドは恐れを知らないコメディアンであり、「ロイドの人気者」(1925)などの作品では、いかにもアメリカ的で無邪気な少年を演じ、弱虫が自分の男らしさを証明するという役柄も多かった。


チャップリン Charlie Chaplin 1889~1977 
サイレント映画の創造力豊かな演技で世界的に名高いイギリスの映画俳優・監督・プロデューサー・作曲家。本名チャールズ・スペンサー・チャップリン。
ロンドンに生まれ、子供のときからミュージック・ホールでパントマイムを演じていたが、1910年にパントマイム一座とアメリカに巡業し、やがて同国で活動するようになった。14年にマック・セネット監督のキーストン社から「成功争ひ」でスクリーンに登場し、「ベニスの子供用自動車レース」(1914)では、だぶだぶのズボンに大きすぎる靴、山高帽子に竹のステッキといういでたちの放浪紳士をはじめて登場させた。いまでは世界じゅうに知られているこの古典的な役柄は、以後70本を上まわる彼の映画で演じられていく。
その後は、エッサネイ社、ミューチュアル社、ファースト・ナショナル社へと移籍したが、1918年にはハリウッドに自分のスタジオを完成。この間、放浪紳士のキャラクターを、陽気なドタバタ劇の類型的人物から、世界じゅうの人々に愛される心やさしい人間像へとかえていった。19年には、ユナイテッド・アーティスツの設立に協力し、同社とは52年まで関わりをもつようになる。
プロデュース・監督・主演をかねた代表作には、「キッド」(1921)、「偽牧師」(1923)、「黄金狂時代」(1925)、「サーカス」(1928)、「街の灯」(1931)、「モダン・タイムス」(1936)、「独裁者」(1940)、「殺人狂時代」(1947)、「ライムライト」(1952)、「ニューヨークの王様」(1957)などがあり、「伯爵夫人」(1967)では、脚本と監督を担当し、出演もしている。また、作品の映画音楽については、ほとんどみずからの手で作曲したものであった。
チャップリンは、サーカスの道化師とパントマイムからひきついだ曲芸的な優雅さをもち、そこに表現力のあるジェスチャー、豊かな表情、完璧なタイミングを加味して、独特の演技スタイルを完成した。彼の演じる小柄な放浪紳士は、逆境や個人をおしつぶそうとする力にけっしてまけない不滅のシンボルとして世界じゅうにみとめられ、チャップリンもまた悲喜劇を演じられる役者として高い評価をかちえていった。
しかし1920年代後半に映画がトーキーとなり、彼のアイディアの基本となっていたパントマイムが軽視されるようになると、時代を表現する重要なテーマに関心をいだくようになった。トーキー時代の最初の2本の映画「街の灯」と「モダン・タイムス」では、小柄な放浪紳士はほとんど無言であったが、その後は放浪紳士という型どおりの類型的人物ではなく、特定の役柄を演じるようになった。録音技術を駆使して生まれた「独裁者」は、このような移行をしめす作品である。チャップリンは題材を風刺とペーソスをまぜあわせて処理し、人間の愛と個人の自由を表現した。
チャップリン「黄金狂時代」
サイレント映画の傑作のひとつ。ゴールド・ラッシュにのってアラスカにむかう主人公は、途中さまざまな困難にであう。空腹のあまり靴をゆでて食べるシーンなど、チャップリンの鮮烈な才能がしめされている。

しかし、1940年代後半~50年代初頭には、左翼的な政治的見方を批判され、52年にアメリカをはなれてスイスに永住するようになった(→ レッドパージ)。72年短期間アメリカにもどり、映画界への貢献をたたえるアカデミー賞の特別賞をはじめ、いくつかの賞を受賞。75年にはナイトの称号がおくられた。
著書に「自伝」(1964。1982年には「初期の時代」として再版)と、「映画における人生」(1975)がある。1992年には、リチャード・アッテンボローによる伝記映画「チャーリー」が公開された。

バスター・キートン Buster Keaton 1895~1966 サイレント喜劇を代表するアメリカの映画俳優・監督・脚本家。ポーカーフェイスと絶妙な間合い、アクロバットのような身のこなしと才気あふれる視覚的なギャグで知られる。
本名はジョゼフ・フランシス・キートン。カンザス州ピクァで、ボードビルの旅芸人の家に生まれる。3歳のときから舞台にたち、ザ・スリー・キートンズの一員として20年をすごした。人気の喜劇役者ファッティ・アーバックルの脇役(わきやく)として「デブ君の女装」(1917)で映画界にデビュー。以後3年間で12本あまりの短編映画に出演した。1920年、アーバックルがパラマウント映画社と契約したため、プロデューサーのジョゼフ・スケンクと映画をつくりはじめた。スケンクから脚本・構成・監督の一切をまかされ、3年間に20本の短編映画をつくり、その多くが傑作だった。彼はこの時期に独自の個性を開花させ、危険を意に介さず、感情を表にださないで、どんな困難にもたえる物静かな表情を演じ、グレート・ストーンフェイスとよばれた。
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「馬鹿息子」(1920)ではじめて長編映画に挑戦したが、初期の作品では「滑稽(こっけい)恋愛三代記」(1923)や「荒武者キートン」(1923)が有名である。映写技師がいねむり中に映画にでる夢をみる「キートンの探偵学入門(忍術キートン)」(1924)を皮切りに、「海底王キートン」(1924)、「キートンの栃麺棒」(1925)、「キートン将軍」(1926)、「キートンの船長」(1927)と、次々と傑作を生みだした。なかでも、英雄物の体裁をとりながら、南北戦争のようすを忠実に再現した「キートン将軍」は、彼の最高作とする人が多い。28年にスケンクとの契約がメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)にうつってから、低迷期をむかえる。「キートンのカメラマン」(1928)はすぐれた長編だったが、会社からのきびしい要求に自由をうばわれ、過度の飲酒もわざわいして、作品の質はしだいに低下した。
[自分のスタジオを手放しMGMに契約したために、シナリオなしですべて自分で映画が作るそれまでのスタイルができなくなってしまった。またさらに離婚で財産をすべて奪われた。しかしトーキーの『ホリウッド・レビュー』では成功している。トーキーに乗り切れなかったと言うより、俳優契約をしたことで自分の持ち味のドタバタ喜劇がつくれなくなったことがその後の不遇を呼んだようである]。
1930年代はたび重なるトラブルにみまわれ、作品にもめぐまれず、端役か脚本の仕事をこなすしかなかった。しかし50年代のテレビの出現が、新たな活動の場を提供し、30分の連続物を担当、コマーシャルにも登場した。また、「ライムライト」(1950)や「八十日間世界一周」(1956)などの映画に特別出演した。59年には映画界への貢献に対しアカデミー賞特別賞がおくられ、「映画界に不朽のコメディをもたらした比類なき才能」がたたえられた。
1960年代にはいると、ふたたび注目をあつめ、多くの映画に実名で登場したり、俳優として出演した。「おかしなおかしなおかしな世界」(1963)や「ローマで起こった奇妙な出来事」(1966)などが有名である。
 長篇を作るときには、「不可能なギャグ」(物語についてきてくれた観客に「四月ばかだよ!」とか「間抜け!」と面と向かっていっているような、あり得ない事で笑いをとるギャグ)は避ける(自伝192頁)。さらに物語の本筋から横道にそれるようなギャグも受けないのでけずる(196頁)。
バスター・キートン&チャールズ・サミュエルズ (著), 藤原 敏史(訳)『バスター・キートン自伝―わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界 リュミエール叢書 (28)』筑摩書房1997年
ハロルド・ロイド Harold Lloyd 1893~1971 
アメリカ映画の喜劇俳優。ネブラスカ州バーチャードに生まれ、父親の転職で各地を転々とする。サンディエゴにいた1912年からエキストラ稼業をはじめ、そのとき知りあったハル・ローチの下で、チャップリンを模倣した「ロンサム・リューク」という役柄の短編喜劇映画シリーズに主演。そして17年に「ロイド眼鏡」で知られることになるキャラクターを創造する。この、まじめでちょっとオッチョコチョイな、どこにでもいるアメリカ青年の役柄が生みだすコメディが大ヒットし、喜劇スターとしての地位を不動のものにした。

ハロルド・ロイド
『要心無用』
高いビルのてっぺんにある大時計にぶらさがるハロルド・ロイド。1923年につくられた「要心無用」(サム・テーラー監督)中の、映画史上にのこる名場面である。このときすでに、白塗りに黒縁眼鏡をかけた、気弱だが、いざとなるとがんばるアメリカ青年ロイドのキャラクターは定着していた。

サイレント喜劇の三大スター
1920年代の喜劇映画の黄金時代には、チャップリン、キートンとならんで三大喜劇スターといわれ人気をほこった。トーキー時代に入った30年代にも何本か主演したが、40年代初めに映画出演をはなれてプロデューサーに転向。46年に「狂った水曜日」(1950年公開)に久々に出演したが、かっての覇気はみられなかった。52年にアカデミー賞特別賞を受賞。また62年に「ロイドの喜劇世界」、63年に「ロイドの人気者」という昔の作品をあつめたアンソロジーが公開されている。おもな出演作に、「ロイドの野球狂」(1917)、「ロイドの水兵」(1921)、「要心無用」(1923)、「ロイドの人気者」(1925)、「ロイドの活動狂」(1932)、「ロイドのエヂプト博士」(1938)など。

講師のコメント
喜劇王3人のなかではもっとも評価が低いかもしれないが、現在のアメリカ映画はむしろロイドの主人公の問題解決にむかう集約性とテンポをもっとも受け継いでいるようにおもわれる。

by takumi429 | 2007-06-12 20:11 | 映画史講義
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