都市の社会学 パリ 4 

都市の社会学 パリ 4 

『パリの社会学』(より引用) パリの引力 (2)
外国からの移住
構成の多様化した移住
20世紀の初頭から、新たな貧困層として、ヨーロッパの国出身者が、フランス地方の移住者に合流した。最初は、ベルギー人とポーランド人、つぎに、イタリア人とスペイン人。
第一次世界大戦の後、アフリカやアジアの植民地国出身の労働者が、移民の動きを再浮上させた。それでも、ヨーロッパの移民はまだ良い時代を、ポルトガルの移民とともに知っている。その後、移民の大部分がアフリカ人となり、マグレブ(リビア、チェニジア、アルジェリア、モロッコなどの北西アフリカ諸国)から、ついでサハラより南のブラックアフリカからやって来るようになった。彼らの国を荒廃させた紛争の結果、東南アジアやクルドからあるいはさらにタミール人の移民がどっとなだれ込んだ。今日ヨーロッパは東の国の在外自由民が大量にやってきている。パリもまた、この世界中の惨事と惨劇が引き起こした移民の波を受け入れることを止めたことは決してなかった。
13区の中国ブティックやスーパーマーケットからグット・ドールの活気あるアフリカ人の路地まで、多様性は絶大である。パリでは、外国労働者、いろんなレストラン、世界中のさまざまな音楽があるおかげで、1つの大陸から別の大陸へいくことができる。
かつては地方がしたように、今日では、世界が数え切れないほどのものを提供することでパリを豊かにしている。調査によれば200近くの民族がいる。多文化併存はもう既成事実である。
しかしまたパリはこの観点から見ても、特殊な都市である。外国人の存在が他の地域よりも多い。1999年、調査によれば、フランス国内に320万人の外国人がいる。うち130万人がパリ地域圏(イル・ド・フランス地域圏)に住んでいる。すなわち40%が、フランスの人口の18.7%でしかない地域にいる。パリへの外国人の集中はより強い。なぜなら、外国人の9.4%がパリに住んでいるが、パリ市民の人口212.5万人はフランスの人口の3.6%にすぎない。
イル・ド・フランスの規模でも、パリはいぜん、いちばん外国人が集まっている地域である(308266人、すなわち、全1301386人のうちの4分の1がいる)。パリの北東のセーヌ・サン・ドニ県は外国人の20%が住み、第2位である。
このまさにイル・ド・フランスの内部での変化は不動産価格の上昇と空き物件の不足という事態に見合っている。低い階層の人間、外国人の大多数がそれにあたるのだが、にとって、パリに住むことはますますむずかしい。中流の社会階層やフランス国籍の世帯がベルヴィーユやグット・ドールのような地区にすむようになったために、移民はこの地区から排除されつつある。
パリで暮らす移民には二種類がある。ひとつは、一部の外国人は、厳密に言えば、移民ではなく、高い職業的地位を持っている。もう一つは、社会分布の最下層で、たいへん貧しい一部の外国人がパリで何とか暮らしている。彼らは、古い社会住宅、すなわち、事実上の、福祉住宅に住む。それは家具付きの宿や使用人部屋や破損しさらに非衛生的な部屋などである。区の外国人の分布はこの二極化を明るみに出す。

パリの外国人分布の不均等
1999年、外国人の比率が平均以上だった区は、3つのグループに分けられる。予想どおり、北東の大衆的な区(18、19、20区)と、中心と東の区(2、3、10、11区)と、逆説的に、もっとも上流な区、8区と16区、とにである。
区ごとの差異にもかかわらず、パリ市内の外国人の割合は、イル・ド・フランスの平均の比率(11.9%)を上回るか実際上は同じであったし、フランス全体の平均比率(5.6%)をはっきりと上回っている。
8区と16区の外国人の割合の高さはこの人口の特殊な構成に対応している。「管理職および知的職業」の20.5%が外国人であった。これに対して18区では、このカテゴリーにあてはまるのは、外国人労働者の9.8%にすぎなかった。「個人に直接サービスする使用人」は8区では外国人労働者の33.9%、18区では20.6%。そのうえ、外国人の国籍構成が同じではない。8区では欧州連合の外在自由民が全外国人人口の57.4%であるが、18区では19%である。8区ではスペインとポルトガルの労働人口の50%より少し多くが、そしてモロッコ人の35%が、特定の仕事(アパートの管理人、掃除婦)をしている。しかし18区ではこの数字は、23%、36.4%、24.7%である。職業と国籍と同時に考慮すれば、豊かな地区の外国人人口の特殊な性格が明らかになる。
外国人の空間的な分布はしばしば共同体に印づけられた様相を帯びている。


パリ、活発な都市
パリの人口増大と地方人と外国人に対する吸引力は、まず第一に、この都市と地域の構成をつくりあげている大きな雇用の受け皿というものに密接な関係がある。1999年、2125千人の住民と1114千人の労働力人口に対して、パリは1656千人の雇用を持っていた。70万人のパリ人が同じくパリで働いているのに対して、30万人は郊外で仕事に就いている。100万人のパリ郊外の住人が毎日パリに働きに来ている。行って帰る交互の移動はこの都市を造ってこわし、昼と夜の二つの顔を与える。
 しかし、他の首都とは異なり、雇用数は減少した。1990年から1999年の間に214530人減少。国勢調査の補足的に利用することで、職場について、しらみつぶしに調べるよりもより正確にわかる。納税額のこの期間の11.8%の減少は、原則として、工業での雇用低下によるものである。
パリの雇用の発展はまた、ブルジョワ化の過程と不動産の高騰の要因の1つでもある。パリの首都としての役割はそのため強固になっている。生産活動では、公害(騒音、煙、トラックの交通)が、部分的に少しの有資格の職人の作業の存在とともに生じるのだが、その生産活動を遠ざけることが、第3次産業を冶金業や木材業よりも価値があるもののように見せることを助長している。カナル・プルスとフランス・テレビジョンができてからのアンドレ・シトロエン河岸通りと、バスチーユ・オペラ劇場ができてからのフォーブール・サン・タントワーヌの変わりようはその目覚ましい例である。公的な第3次産業部門のいくつかの分散は、国立行政学院[高級官僚養成のグランドゼコール]のストラスブールへの移転のように、実人員において、多くの職場を提供してきた工房や工場の閉鎖や移転に比べて、わずかな重みしか持っていない。ポンビドー・センターができる前は、メル通り、グラヴィエリエル通りには、家具装具金物専門の冶金の工房を見ることができた。ここは、ボブールから目と鼻の先の所だった。
12区、13区、20区だけが雇用数の増加をみた。12区は15908、他の二つの区はより控えめの増加(13区は1434、20は2889)にとどまった。残りの区の中では、8区が一番、雇用が減少し、53335の減少。他の区は、差し引きしてマイナス(15000以上の雇用の減少)なのは、1区、2区、6区、10区、16区である。ローラント・ダヴズが強調したように、中心部と西部の雇用の減少と東部の増加(とはいえそれはつつましいものなのだが)による「パリの活動の再均衡化の始まりがみられる」[Davezies, 2002, p. 102].
ルーブルからベルシーへの大蔵省の移転[パリ市東部副都心開発部の12区リュ・ド・ベルシー139番地にあるベルシー庁舎(89年6月に改築)にルーブル宮リシュリュウ翼から中央省庁として移転、現在は経済・財政・産業省] は、この再均衡化の意志の公然たる、もっとも人目をひく宣言のひとつであり、都市計画の地図に書き込まれ、パリの空間を再構築するものである。たとえ、パリの都市原理が再構成から守れようとも(変わらないとしても)、それは低-利用の、いわば、工場の荒れ地や放置された倉庫で台無しにされ、庶民的な地区まじりの、東部地域を再開発するという二次的効果をもたらす。
人々を引き寄せているパリというのは、時期が来れば、最も貧しい者、住民の中でもっとも支払い能力のない者を排除していくパリでもある。管理職の雇用を美化し、設け、作り上げ、グット・ドールのような通りをもってして、創造活動の出現をうながし、物質的、あるいは文化的な資源において、新しい都市環境に弱く不適合な人口を支えるというようなことは、一度にはできない。」

〈パリ散策〉
『パリ万華鏡』の記述による
中華街(13区)
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1960年からはじまった都市再開発プロジェクト「レゾランピアド地域開発プロジェクト」「マナセ地域開発プロジェクト」
もともと13区は労働者が多くを占める街。自動車産業のパナール社・ルヴァソール社の工場。職人も多くいた。
プロジェクトの目標:劣悪な状態にある地区にもっとも貧しい庶民層が集中してしまうような格差を生むプロセスの解消。
スポーツ施設や商業施設、文化活動といった郊外に住む富裕層が手に入れることができるような利便性を享受しながら、同時にパリに住めるという利点、さらにこの地区のモダンさによって引きつけられるであろう中級あるいは上級管理職の若い層を潜在的顧客としてねらっていた。しかし肝心のターゲットである管理職の人々は、あたかも郊外にある低家賃住宅地に住むことを提案されているような印象をもってしまった。かわりに中国系のベトナム人、カンボジア人、ラオス人といった東南アジアからの難民が住み着くようになった。
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多くを占めるのが次の中国人
温州(上海の南)出身者:第一次世界大戦出兵で不足した労働力を補うために動員された者。さらに中国での共産党政権奪取後に無一文で逃げてきて、さきに住み着いた同郷人を頼って来た者。
潮州(香港の北・広東州東部)出身者:フランスの植民地開発にともなってインドシナに定住した。東南アジアにおける華僑。ベトナム、カンボジア、ラオスの共産党政権から逃げ出した。
この地区にあったよそ者を受け入れる伝統。労働司祭[修道院などにこもって修行する司祭ではなく、社会に出て労働をとおして布教する司祭たち]の活動が盛ん。
ユダヤ人のゲットーのように閉じたものではなくて、ここ中国人街は開かれたゲットーと言える。
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国立図書館周辺
セーヌ川の水上プール:ジョセフィン・べーカー
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図書館の隣にある映画館
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ジョセフィン・ベーカー Josephine Baker 1906~75 
アメリカ出身のシャンソン歌手・ダンサー。スペイン人の父と黒人の母のもとにセントルイスで生まれる。1925年、黒人レビュー団ブラック・バーズにくわわってフランスにわたり、大胆なヌードと奔放なチャールストンの踊りでセンセーションをまきおこした。その後フランスに定住し、「二つの愛」「可愛いトンキン娘」などのヒットをはなつ。第2次世界大戦には空軍中尉として従軍、フランスの対独レジスタンスに協力した。戦後、中部フランスの古城に孤児養育施設を開設、世界各地から養子をむかえる。54年、混血孤児救済活動の一環として日本のエリザベス・サンダース・ホームを訪問。施設運営資金をえるため高齢をおして公演中、パリで急逝した。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2005. (C) 1993-2004 Microsoft
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 Paul Colin
You Tube (http://www.youtube.com/) で映像検索するとさまざまなジョセフィン・ベーカーのステージが見ることができる。
ジョセフィン・ベーカーはアール・デコのシンボルでもあった。
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アール・デコ Art Déco 
1920~30年代に流行したデザイン様式。滑らかな流線形のフォルムに洗練された気品が感じられ、主として家具、宝飾品、織物、室内装飾にもちいられた。この様式は1910年ごろからあらわれたが、「アール・デコ」の名称でよばれるようになったのは、25年パリでひらかれた「現代装飾・工業美術国際展」(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)、略してアール・デコ展以後のことである。
アール・デコは凝りすぎる傾向のあった世紀末のアール・ヌーボー様式の単純化をめざした動きにはじまり、その新しい美学は、時代の機械化の歩調に即して急速に発展した。産業化の進展の中で生まれたアール・デコは、簡潔な線、空気力学、シンメトリーを特質としている。その製品の大半は量産されなかったが、量産品の本質を特徴づける単純さ、単調な反復性、幾何学的パターンをもっていた。
アール・デコの最初の実践者は、洋裁師ポール・ポワレと、宝飾やガラス細工で知られるルネ・ラリックの2人であった。そのデザインは繊細でのびやかな、ながれるような線を特徴としていた。東洋風な舞台装飾と色彩感覚で知られたディアギレフの「ロシア・バレエ団」(1909年創設)、エジプト風モティーフの流行を生んだ「ツタンカーメン王墓」(1922年発掘)、優雅な幾何学的フォルムをもとめたキュビスムなどからも、アール・デコは大きな影響をうけた。1920年代、30年代を代表する美術家には、家具師リェルマン、漆細工師デュナン、銀細工師ピュイフォルカ、宝飾細工師ラリックらがいる。
作品がますます大量生産され、この運動の中心がフランスからアメリカにうつるにつれて、アール・デコ様式はいっそう幾何学的、直線的傾向を強めていった。アメリカでは、蒸気機関車、高層ビル、ドライブイン、ラジオのキャビネット、ジュークボックス、広告などにこの様式がとりいれられた。
Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2005. (C) 1993-2004 Microsoft Corporation. All rights reserved.

セーヌ川上流の13区と12区の両岸の再開発
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ベルシー庁舎:「経済・財政・産業省は、パリ市東部副都心開発部の12区リュ・ド・ベルシー139番地にあるベルシー庁舎(89年6月に改築)にルーブル宮リシュリュウ翼から中央省庁として移転した。ミッテラン大統領自ら採択したといわれる、ロシア系フランス人のシュミノフとウイドブロの両建築家のプロジェクトに基づいた典型的なポストモダン建築である。」http://www.jetro.be/jp/business/eurotrend/200111/200111-3.pdf

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by takumi429 | 2007-07-17 17:45 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)
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