都市の社会学パリ 7

都市の社会学パリ 7
オルセー美術館と印象派

19世紀後半の消費革命により、フランス、とりわけパリの生活は、富裕な商工業者(ブルジョワ)とそれに付随する小経営者・上級官吏・給与生活者・年金生活者(プチ・ブルジョワジー)とその家族の生活を基調とするものになった。
フランス・ブルジョワ社会の成立をうながした第二帝政の崩壊直後のパリコミューンはフランス政府軍により壊滅させられ(約3万人の虐殺)、パリはよりいっそうブルジョワ社会として第一次世界大戦(1914年)までの「よき時代ベルエポック」を謳歌することになる。
印象派の絵画はこうしたパリを中心としたブルジョワの余暇社会をなかで生まれた視線をもちいてその社会や自然を描いたとみることもできる。

オルセー美術館
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王政が最終的に打倒された2月革命(1848年)から第一次世界大戦(1914年)までの美術品をおさめているのが、オルセー美術館である。(原則としてそれ以前の美術品はルーブル美術館、それ以後はポンビドゥー・センターにおさめられている)。オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設された鉄道駅舎兼ホテルであった。それを改修して1986年に美術館として開館した。駅舎だったために鉄とガラスでできた明るい建物は、建物の奥の5階にある印象派の多くのコレクションと見事に調和している。また19世紀の写真、グラフィック・アート、家具、工芸品なども展示されており、19世紀後半「世界の首都」とよばれたパリの文化を堪能することができる。
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ポンビドゥー・センター

ポンピドゥー・センター(Centre Pompidou)は、フランスの首都・パリにある総合文化施設で、正式名称はジョルジュ・ポンピドゥ国立美術文化センター(サントル・ナシヨナル・ダール・エ・ド・キュルチュール・ジョルジュ・ポンピドゥCentre National d'Art et de Culture Georges Pompidou)という。レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースが設計し、1977年開館。名前は、フランス第五共和政の第2代大統領ジョルジュ・ポンピドゥーにちなんでいる。ポンピドゥー・センターには国立近代美術館、産業創造センター、音響音楽研究所IRCAM、公共図書館が入っている。
美術館としては国立近代美術館に20世紀の美術が展示されている。現在は美術館の中の中二階にあたる部分にマチス、ピカソからボイスまでが展示されており、一階にあたる部分にはもっぱらビデオ・アートが展示されている。
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印象派
アカデミーとサロン
(Wikipediaより)
フランス学士院(-がくしいん Institut de France)は、フランスの国立学術団体。17世紀に絶対王政のもと、アカデミー・フランセーズなどの団体(王立アカデミー)が設立されたが、フランス革命後の1793年、いったん廃止された。1795年10月25日にフランス学士院として創設され、現在はアカデミー・フランセーズ及び4つのアカデミーで構成される。
•アカデミー・フランセーズ (1635年設立)
•碑文・文芸アカデミー (1663年設立)
•科学アカデミー (1666年設立)
•倫理・政治学アカデミー (1795年設立)
•芸術アカデミー (1816年設立)
芸術アカデミー
もともとアカデミーは、徒弟制のもとで工房、職人組合など属していた画家や彫刻家、あるいは音楽家達が、芸術は知的な学問分野であり旧弊な制度は廃されるべきだとして結成した自由な集まりであった。やがて彼らは国王直属の機関となり、ヨーロッパに冠たる芸術国家を作ろうという国家の芸術政策のもと、芸術家の育成・表彰・展示といった特権を独占する。フランス革命前に、芸術関係では次の3つの王立アカデミーがあった。
•絵画・彫刻アカデミー(1648年、シャルル・ルブランらにより設立)
•音楽アカデミー(1669年設立)
•建築アカデミー(1671年設立)
フランス革命議会により、1791年王立アカデミーは廃止されたが1795年に再興。王政復古期の1816年に「芸術アカデミー」に統合された。
アカデミー制度の中心になるのは、修業方式でない方法で芸術家を育てる教育機関(エコール・デ・ボザール)、若手の芸術家から優秀な者を選びイタリアなどへの学習旅行を贈るコンクール(ローマ大賞)、自分達の発表の場を自分達で確保する展覧会(サロン)の3つである。
エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts, École nationale supérieure des Beaux-Arts)は19世紀パリに設立されたフランスの美術学校である。
17世紀にフランス王立アカデミーの付属学校が設置された。1819年に、絵画・彫刻・建築の部門が統合され、国立の美術学校(エコール・デ・ボザール)となった。ボザールでの教育は伝統的、古典主義的な作品が理想とされた。(古典主義:動的で劇的で過剰な装飾性をもつバロック(語源は「ゆがんだ真珠」という意味のポルトガル語)に対して、ギリシャ・ローマの古典古代を理想とし、調和と均衡を理想とする)
1968年の5月革命をきっかけに大学の改革が行われ、エコール・デ・ボザールも分割されたが、パリのエコール・デ・ボザールとして続いている。
ローマ賞(Prix de Rome)は、芸術を専攻する学生に対してフランス国家が授与した奨学金付留学制度である。1663年、ルイ14世によって創設され、1968年廃止されるまで継続した。
1663年創設当初のローマ賞では建築、絵画、彫刻、版画の各賞が設けられ、王立アカデミーの審査により優秀者が選出された。このうち第一等、第二等受賞者が、コルベールによりローマ・ボルゲーゼ庭園(Villa Borghese)内のメディチ荘(Villa Medici)に設立された在ローマ・フランス・アカデミー(Académie de France à Rome)に送られ、彼らはそこで一定期間イタリア芸術勉学の便を得た。1803年の制度改革により芸術アカデミー会員の審査という形式が確立し、また音楽賞が追加された。
制度が確立した19世紀にあってローマ賞は各部門若手芸術家の登竜門として機能した。しかし、終身会員であるアカデミー会員がその出身分野を問わず全部門賞審査の投票権をもつことから、「旧い世代」に属する彼らの審査基準が保守的であり、新奇な芸術傾向に対して過度に敵対的であることへの批判、建築、絵画、音楽など他の芸術分野の審査を行えるのだろうかとの疑問、あるいは審査員は愛弟子を優遇しているのではないかとの疑惑がたびたび提起された。
受賞者中にはもちろん後世名を成した芸術家も多いが、必ずしも大成した者ばかりでないこと、一方で絵画部門でのドラクロワ、マネ、ドガ、作曲部門でラヴェルなど、ローマ賞にたびたび挑戦するも認められなかったが、後に名声を得た芸術家も多いことが、こうした権威批判を裏付けている。
フランスにおける反権威主義運動の頂点となった1968年のいわゆる五月革命後、ローマ賞はアンドレ・マルロー文化大臣により廃止されたが、1971年からは「奨学金給付生(pensionnaires)の選定」という形でなかば復活しており、この奨学金給付生も「ローマ賞受賞者」と呼ばれることが多い。現在、給付生は18か月ないし2年間メディチ荘への滞在が認められる。ただし現在の運営主体は芸術アカデミーでなく、フランス文化省管轄下の法人組織として財政上の独立性を担保された在ローマ・フランス・アカデミーである。

サロン(仏:Salon)とは、もともと応接室などの部屋を意味する言葉である。
1.応接間、談話室など。
2.フランス語で宮廷や貴族の邸宅を舞台にした社交界をサロンと呼んだ。主人が、文化人、学者、作家らを招いて、知的な会話を楽しんだ。
3.(フランスで)展覧会のこと。元々芸術アカデミーが開催する美術展(官展)がルーヴル宮殿の大サロンで開催されていたことに由来する。ディドロの「サロン評」は美術評論の始まりといわれる。
高階秀爾『フランス絵画史 ルネッサンスから世紀末まで』講談社学術文庫
アカデミーの美学 は、絵画を、何よりもまず理性に語りかけるものとする考えにもとづいている。・・・理性に語りかけるということは、絵画のびを支えるものとして、合理的な基準を重んずるということである。画家は事故の絵画表現を、感覚的なものではなく、合理的な基準にしたがわせなければならなかった。このようにして、遠近法、数学的人体比例、幾何学的な安定した構図、正確な明暗表現などがアカデミーの絵画の基礎となった。・・・そのような規則や基準を学ぶための手段としてアカデミーが画家たちに要請したのは、優れた範例、すなわち古代(ギリシャ、ローマ)やルネッサンス(特にラフェエロ)の作品の模写ということであった。これらの範例を学ぶことによって、画家は正しい基準を養うことができる。もちろん、アカデミーの理論も現実のモデルの写生を否定するものではない。・・・しかしながらアカデミーの理論家たちによれば「模倣」すべき対象は「ありのままの自然」ではなく「あるべき自然」であった。人間にしても風景にしても、現実の姿は不完全であり、正しい基準にしたがってはいない。それ故に、まず優れた先例に学んで、そこから得られた正しい基準にのっとって自然を修正することによって「真の理想」が達成されることになる。・・・
また、その同じ合理主義的な美学は、デッサンを色彩よりも優位に置く考え方を生み出した。デカルトが語った通り、この現実の世界の本質は「広がり」であり、色のない「広がり」はあっても、「広がり」のない色はあり得ない。したがって、線や形は色彩よりいっそう本質的なものであり、それ故に絵画においてもいっそう重要なものと考えられた。このようにして、過去の優れた範例を手本としてまずデッサンの習練を積み、正しい基準に基く形態の把.握や正確な陰影法を十分に身につけ、次いで人体モデルなどの現実の対象を「正しく」写し出す訓練を重ね、最後に色彩の表現を学ぶという、今日にまで続いている絵画修業のプログラムがこの時期に確立されたのである。
 さらに、絵画は理性に語りかけるものであるから、当然ある明確な主題ないしは内容を持たなければならない。単に感覚的な表現だけでは絵画として不完全なものと考えられ、いかに技術的に優れていても、格が低いものと見倣された。この考え方によれば、神話的主題や宗数的主題も含めて、ある物語的(あるいは寓意的)内容を持つ「歴史画」こそが、最も高貴な絵画ということになる。歴史画以外のものも、描き出される対象によって、肖像画、風景画、静物画などに分類されるが、人間を描く肖像画は、自然を描く風景画よりも格が上であり、無生物を対象と寸‐る静物画は風景画よりも一段と下のものだと見倣された。すなわち、ジャンルによる絵画の価値の序列が成立したのである。(106-9頁)
藝術家の養成においても、アカデミーの役割は決定的であった。当時の画家にとって、正規にモデルを使って勉強できる場所はアカデミー付属の王立絵画学校しかなかった(もちろん、人間のモデルを使うことができるのは、範例の模写や石膏デッサンなど、必要な課題を終えてからである)。そしてアカデミーに正式に入会を認められるためには、普通には「大賞」受賞、資格認定、入会作品の審査という三つの段階を経なければならなかった。いずれの段階においても、審査するのはアカデミーの会員たちである。
「大賞」というのは後に「ローマ賞」と呼ばれるようになるもので、絵画学校の課程を終えて優れた卒業作品を提出した生徒に与えられる。「大賞」を得るとイタリアに留学する資格が得られ、普通の場合ならローマのフランス・アカデミーで学ぶことになる。後には、この「大賞」受賞を目指す学生だけを待別に教育する特待生教育の学校まで創られた。イタリアから帰ってその成果を示す作品が十分に優れたものと認められれば、アカデミー会員への有資格者(準会員)として承認され、入会作品の課題が与えられる。課題作制作の期限は普通一年で、その入会作品が審査を通って受け入れられれば、やっとアカデミーの会員になれるのである。もちろんこれは一般的な場合で、時には例外もあり得る。(134-5)
 ルーブル宮殿の「サロン・カレ」(方形の間)で開催されたため、1737年以降「サロン」と呼ばれるようになった公式の展覧会も、やはりアカデミーが主宰するものである。18世紀の「サロン」は、19世紀のそれとは違って公募せいではなく、出品はアカデミーの正会員、準会員にかぎられていたから、自分の作品を世に知らしめるためには、やはりまずもってアカデミーに入る必要があった。(136)
アカデミーが主宰する官設の展覧会であるサロンも、19世紀になってその性格を大きく変えた。旧体制の時代においては、サロンに出品できるのはアカデミーの会員(正会員、準会員)にかぎられていたのに対して、革命後は、自由と平等の理念に基づいて、サロンは万人に開かれたものとなったからである。もっとも万人に開かれたと言っても、現実問題としては誰でも作品を並べることができるというものではない。主として実際の会場の都合から、特に応募者が急増した1830年代以降、作品を提出するのは誰でも可能だが、それが展覧会場に並ぶかどうか審査という厳しい関門を通らなければならないという事態が生じてきた。

1863年ナポレオン3世が(サロン)落選者展の開催を命ずる。マネ『草上の昼食』
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ボードレール『現代生活の画家』
「群集こそが彼の領域である。大気が鳥の領域であり、水が魚の領域であるように。彼の情熱にして職業であるもの、それは群集との婚姻である。完全な遊歩者、情熱的な観察者にとって、数の中、揺れ動くものの中、運動の中、束の間と永遠なものの中に住居を定めることは広大な喜びである。我が家の外にいながらにして、どこにいても我が家にいるように感じる、世界を見る、世界の中心にいる、世界に隠れ続ける、そのようなことが、こういった自由で、情熱的で公平な精神が持つ、言語によってでは不器用にしか定義し得ない、慎ましやかな喜びの幾つかなのである。観察者とは、どこにいても自己の無意識を享受する王族なのである。生命の愛好者は、世界を己自身の家族とする。あたかも美しい性の愛好者が、既に見つけだした美女や、これから見つけ出す、もしくは見つけ出すことの出来ないであろう美女たち全てを、彼の家族とするように。もしくは絵画の愛好者が、キャンバスに描かれた夢によって魔法をかけられた社会の中で生きているように。そのようにして、普遍的な生を愛する者は、電気の巨大な貯蔵庫の中に入るように群集の中に入っていく。この人物を、群集と同じくらいに巨大な鏡にたとえることが出来るだろう。もしくは意識を授けられた万華鏡にたとえることが出来るだろう。その万華鏡は、動きの一つ一つにおいて、多様な生と、生の持つあらゆる要素の動的な魅力とを体現するのである。それは非我に飽くことのない自我である。瞬間ごとに非我を、生そのものよりも生き生きとした、常に定まらることのない束の間の姿に変えて表現するのである。ある日G氏は、力強い眼差しと、喚起力を持った仕草とでとある会話を輝かしながらこう言った、「あらゆる能力を飲みこむような、実に明確な性質の怒りに苦しまないような人間は、群集の懐で退屈するような人間は、皆愚か者である!そして私はそのような愚か者を軽蔑する!」と。・・・
そのようにして、彼は行く、走る、そして探す。何を探しているのだろうか?間違いなくこの人物は、つまり私が描いてきたような、活発な想像力を授けられ、常に人間たちという大きな砂漠を横切って旅を続ける孤独者は、単なる遊歩者よりも高尚な目的を持っている。その場の状況次第の束の間の快楽とは異なる、より全般的な目的を持っている。彼が探しているその何かを「現代性」と呼ぶことをお許し願いたい。というのも、問題となっている観念を表現するのに、これ以上に相応しい言葉が存在しないのである。彼にとって重要なのは、流行の中から、流行が歴史性のうちに持ちうる詩的なものを取り出すこと、移り変わり行くものの中から、永遠を引き出すことなのである。今日の絵画の展示会に目を向けた時、我々が驚かされるのは、あらゆる主題に過去の衣装をまとわせようとする、芸術家たちの一般的な傾向である。ほとんど全ての芸術家たちがルネッサンスの流行や家具を取り入れているのは、ちょうどダヴィッドがローマ時代の流行や家具を用いていたのに似ている。しかしながら、そこには一つの違いがある。それは、ダヴィッドはとりわけギリシャ・ローマ的な主題を選んだので、そこに古代の衣服を着させるしかなかったのに対して、昨今の画家たちは、あらゆる時代に当てはまるような一般的な主題を選びながらも、中世やルネッサンスやオリエントの衣服をそこにまとわせることに固執しているという点である。これこそ疑いようのない怠惰の証である。というのも、ある時代における衣服に関するあらゆるものが醜いと宣言してしまうことは、そこに含まれる不思議な美を、たとえどれだけそれが小さく微かなものであろうとも、抽出しようと努力するよりも、ずっと都合が良いのであるから。現代性とは即ち、移り変わり行くもの、束の間のもの、偶然のものである。これが芸術の半分を占め、残りの半分が永遠なもの、不動なものである。古代の画家たちにも、それぞれの現代性があった。古代から我々の手元に残されている大多数の美しい肖像画には、その時代の衣装が着せられている。そういった肖像画が完全なまでの調和を得ているのは、衣装や、髪型や、更には仕草や、眼差しや微笑みさえもが(各時代には、それぞれの仕草と眼差しと微笑みがある)完全な生命力を持った一つの総体を作り上げているからである。この移り変わり行く要素、束の間の要素は、その変容が実に頻繁ではあるが、この要素を軽蔑したり、それ無しで済まそうとしたりすることは出来ない。この要素を消し去ってしまえば、原罪を犯す前の唯一の女性が示していた美のような、中傷的で定義しがたい美に陥らざるを得ないだろう。その時代が要求する衣装を、別のものによって代替してしまうのは、それが流行の求める仮装であるというような場合を除けば、言い訳の出来ない過ちを犯すことである。それゆえに、18世紀の女神や妖精やトルコ王妃の肖像画は、精神的に似通っているのである。」
遊歩者(Flâneur) この言葉(「散策する」という意味のフランス語のflânerに由来)は、シャルル・ボードレールが用いて、他人を観察しながら群衆のなかを歩き回ることを楽しむ都会人を指した。ボードレールは『現代生活の画家』のなかで、親密でありながら冷淡で、社会階層の相違に非常に敏感な現代の眼差しを示すものとして「遊歩者」という語を使用した。芸術ではコンスタン・ギースの作品に見られるような風俗スケッチがこれに対応し、すばやいスケッチと鋭い観察とが結びあわされている。それは印象主義によっって形をとることになる自然主義的な様式のための新たな公式となった。(ジェームズ・H.ルービン著/太田泰人訳『岩波世界の美術 印象派』427頁)
1864年エドゥワール・マネ『オアランピア』をサロンに出展。
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アレクサンドル・カバネルの代表作『ヴィーナスの誕生』との比較。
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奥行きの欠如(否定):平板な塗り方、歴史(物語)性の否定。アカデミーの美学の否定。
現代の生活の諸相を描く。
そのために同一のモデルにいろんな衣装を着せて使うこともいとわない。(バルザックの人物再登場法を想起させる)

クロード・モネ「タンタドレスのテラス」
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「このようにモネの作品は、近代的商業の富とそれがもたらす余暇とを、最新の趣味による明快な線と実用的な読解性(さらには魅力的な色彩)をもった視覚的な形式に統合することによって、自分が生きている時代の一貫したヴィジョンを表現しているのである。彼は知らず知らずのうちに、領有する豊かな領地の前でポーズをとる荘園領主を表した記念的、祝賀的絵画の、資本主義的現代版を作っていたといえる。(ルービン103)
「この画家に確実に見いだされる1つの特徴は、世界を視覚的なスペクタクルとしてあらわすことによる遠隔化の効果である。」(ルービン121)
観光ガイドにのっているような景勝地を描く。余暇社会がもたらす視線。
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エドガー・ドガ
「ドガは、同時代の余暇生活にたいする鋭い観察を基盤とした、印象主義的の都会的次元を明確にした。その独創的なな空間構成や実験的な技法は、自然主義的な効果の背後に計算された人工的な手段があることを強調しており、それによってドガの作品に自覚的で主知的な調子を与えている。」(ルービン179)
古典的手法で現代の都会生活を描き出すことからドガは「現代生活の古典画家」と自らを位置付けた。
身体のねじれや開きの方向によって空間の構成がいかに変わっていくかを、バレリーナや娼婦をつかって実験的に研究する。
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競馬はイギリスに亡命した貴族たちが持ち帰った上流階級の新風俗であった。
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カメラのスナップショットから影響うけた斬新な画面の切り取り
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パトロンである紳士がバックステージに立っている。この頃、踊り子は金持ちをパトロンをもつのが当たり前となっていた。

ケルボット

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オスマンのパリ改造後の都市風景

ピエール・オーギュスト・ルノワール画
「La Loge(桟敷席)」1874年
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オペラ座の風景 観客席をながめて女を物色する男

デュマ・フィス『椿姫』
「〔高級娼婦〕マルグリッドは芝居の初日にはきっと欠かさず見に行った。そして毎晩、劇場や舞踏場で夜をふかした。新作が上演されるたびに、きまって彼女の姿が見られたが、そういうときには、必ずといっていいほどに、1階の桟敷の前には、三つの品がそえらえてあった。観劇眼鏡と、ボンボンの袋と、椿の花束が。この椿の花は、月の25日のあいだは白で、あと五日は紅だった。」(新潮文庫21頁)。
劇場の桟敷で、「店を張る」高級娼婦。椿の花は「開店」・「閉店」の札代わり。
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by takumi429 | 2007-07-18 14:29 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)
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