2009年 07月 08日 ( 1 )

コラム 色づく街

コラム 色づく街
---病者の意味世界理解の試みとして---
                             
 看護学校教員、滝田恵子がその精神病院に行くようになったのは、5月のはじめのことだった。実習校であるその病院に恵子は学生を連れて行った。
実習の監督指導だけでは物足りないと感じた恵子は、生来の積極さもあって、入院患者に関わってみた。
たまたま学生の一人がついたのが、入院35年という65歳の初老の女性患者だった。
話をするうちにうち解けた恵子は、この30年間病院を出たことがないその患者にむかって、こう提案してみた。
「おいしいうどんを食べに、一度、街にでてみない?」
こうして藤田佳子は30年ぶりに街に出ることになった。
 
 30年ぶりに見る繁華街は何もかもが変わって見えた。
高いビルがいくつもそりかえったように建っている。車の往来の音が耳にこだまする。
 地下鉄の出口を出て立ちすくんでいる佳子を恵子の手を取った。
「藤田さん、こっち」
導かれるままに大きなビルの中に入った。デパートだった。
「このビルの7階のうどん屋さんがうまいのよ」
二人はエレベータに乗り込んだ。
 佳子はドアがしまり上昇し始めると自分がきゅーんと縮んでいくような気持ちになったが、恵子には言わずにいた。
 店に入り、メニューをみた。
「ここはね、このざるきしめんがうまいのよ」
と恵子に言われて、佳子は恵子と同じものを頼んだ。
 うどんが出てくるの待ちながら、なぜかわくわくしているのが自分でもおかしい。
 病院ではいつもできた食事が配膳される。
おなかがすいていようといまいと、関係なく、食事はきまった時間に、とくに夕食は5時前に配膳される。おなかがすいて注文してそれを待っているというがこんなにもわくわくすることだったのか。佳子は遠い昔のことを思い出したような気持ちになった。

 食事が終わって、恵子たちは一階にもどった。一階には化粧品売場があった。
恵子は佳子の手を引いて、
「ちょっと見てみましょうよ。」と言い、
店員に、
「あの、今日は買えないけど、ちょっと見ていいかしら」
「ええ、どうぞ」
ひまをもてあましていた店員は愛想良く答えた。
のぞき込む恵子と佳子に
「よろしかったら、すこしだけお試しになりませんか。」
躊躇する佳子を恵子はすわらせた。
店員がファンデーションを佳子の顔にぬりつけ、
筆にとって輪郭をつけてから口紅をゆっくりと引いた。
鏡の中の佳子の顔が急に若やいだ。
「藤田さん、20歳は若くなったわよ。」
「そうですか。」
佳子もまんざらではない。
何年ぶりだろうか、お化粧をするのは。
鏡のなかで別人にようになっている自分を見ながら、佳子は考えた。

 化粧をしてから佳子の足が速くなった。
デパートを出て、すこしだが恵子の先を歩くような形になった。
「あれは何かしら」
佳子が振り返るようにして恵子に聞いた。
見ると、「憲法改正反対」の署名運動だった。
恵子は佳子の説明した。すると、佳子は
「私も署名したい」
すこし恵子は驚いたが、そのそぶりは見せずにいっしょに署名のところに行った。
「どこに書けばいいんですか。」
「この欄に住所、この蘭にお名前を書いてください」
若い男は答えた。
指さされて、佳子は恵子の方をふりかえった。
「住所はどう書けばいいのかしら。」
「病院の住所を書けばいいわよ。」
「名古屋市天白区××-××南原病院西棟」
言われるままに佳子は書いた。そして氏名の蘭に
「藤田佳子」
と書いた。
病院の書類以外のものに自分の名前を書くのはひさしぶりだった。
自分の名前が病院から出て外の場所に立っているように佳子は感じた。

道と道の間は広い公園になっていた。
木々がのびあがるようにおおっていた。
公園のベンチに座り、佳子と恵子は木々を見上げた。
木々の緑は新緑から次第に濃い色に変わりつつあった。
日差しが木陰の合間からちらちらと差した。
どっしりと座りこんだような大きなビルとビルの間を
ラフなかっこうをした若者たちや、背広を着たひとや、ワンピースをきた女性や、
高下駄のようなサンダルを履いた子たちが歩いていく。
「夏になるわね」
恵子の言葉に佳子は季節を思った。
病院のなかでは時間はカレンダーをめくっていくことでしかなかった。
だがここでは季節が確かに移ろいで行く。

二十歳のころから入院と退院をくり返し、
佳子の世界は次第に色を失っていった。
それがいまこうして街にでて食事をし、化粧をし、自分の名前を署名に書き、
公園の緑を見上げているうちに、
町が、風景が、季節が、そして空気までもが、ふたたび色づき始めたように、
佳子は感じた。
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by takumi429 | 2009-07-08 00:40 | 臨床社会学 | Comments(0)