人気ブログランキング |

カテゴリ:メディア社会学( 13 )

11.携帯電話・インターネット

第11回 携帯電話・インターネット

移動体通信 いどうたいつうしん 移動通信ともいう。船舶、航空機、自動車や人など、固定されてない場所への通信の総称。陸上移動体通信には携帯・自動車電話、簡易型携帯電話(PHS:パーソナル・ハンディホン・システム)、ポケットベル(無線呼び出し)などがある。
携帯電話 けいたいでんわ Mobile Telephone セルラー電話(Cellular Radio)
電波で携帯端末と中継局との交信をおこない、さらに通話の相手先につなぐ。端末が移動していても、中継局は、自動的に隣接する中継局に通話をひきつぐので、通話は中断されない。一定の地域を区画して細胞(セルラー)のように通話を維持する。
1968(昭和43)年 日本電電公社ポケットベルサービス始める。
1985(昭和60)年
日本電信電話株式会社(NTT)発 足
ショルダーホン(車外利用型自動車電話)のサービス開始
フリーダイヤル0120、サービス開始
電話回線をつかってパソコン通信できるようになった。
1986(昭和61)年
伝言ダイヤル通話サービス開始
1987(昭和62)年
1987年9月
ポケットベルにNC C(新規第一種電気通信事業者)参入。
90年代前半にブームとなるが96年に登録台数頭打ちとなる。
携帯電話サービス開始
1989(昭和64・平成元)年
ダイヤルQ2開始
104番で全国の電話番号案内実施
1990(平成2)年
デジタル公衆電話機サービス開始
1994年には携帯電話の売り切り制が導入され
1995(平成7)年
PHSサービス開始
1996年
メールとしての文字サービスがPHSにおいて開始される.
1997年
PHSの加入者数がピーク
1998(平成10)年
携帯電話の世帯保有率が50%を越える
衛星携帯電話サービス開始

インターネット Internet 世界じゅうのコンピューターを相互接続したネットワークの総称。
1969年 インターネットは、ARPAネット(アーパネット)とよばれる、開設されたアメリカの国防総省のネットワークと、ほかのさまざまなネットワークを接続する目的をもったネットワークを基盤として70年代の末ごろ生まれた。爆撃といった軍事的理由でネットワークの一部が部分的に機能しなくなっても、ネットワーク全体におよぼす被害が最小限であるようなネットワークを実現するのが目的だった。その結果、目的のコンピューターにデータを確実におくる責任が、ネットワーク自体にあるのではなく、送信したコンピューター自身にあるというネットワーク・アーキテクチャーが実現するにいたった。
1984年には軍事利用は機密保持のためにMILNETとして分離され、ARPAネットは学術利用専用のネットワークとなった。
1990年代に入ってから、地域や民間のインターネット接続サービス提供事業者(プロバイダー)がサービスを開始し、一般の民間会社や個人にも爆発的に普及。
1984年 日本ではにJUNETという名のネットワークが大学を中心とする研究機関によって運営されはじめた。
1989年にインターネット上にWWWシステムが登場。
インターネットで利用できるサービス
FTP FTPはインターネット上のファイルを転送するためのプロトコルで、サービスの名前でもある。広大なインターネット上に散在するプログラムやデータを検索し、自分のコンピューターにデータを読みこむ、つまりダウンロードするのにつかわれる。
電子メール 文字どおり「電子化された手紙」をやりとりするサービス。個人に対するメールはもちろんのこと、複数の相手への通信も可能。また、文書だけでなくイメージなどのマルチメディア・データも添付して送信することができる。メーリングリストとよばれる電子メールの機能を利用した複数のユーザー間で情報を共有するサービスもある。SMTP(Simple Mail Transfer Protocol)というプロトコルがつかわれ、添付されるマルチメディア・データに関しては、MIME(Multi purpose Internet Mail Extensions)というプロトコルがつかわれる。
ネットニュース インターネット上にある電子掲示板サービス。世界じゅうに数多くのテーマ別の掲示板があり、多くの人がここに自分の意見を書いたり、他人の意見を読んだりしている。基本的に英語がつかわれるが、日本語だけのネットニュースもある。
WWW 1989年にCERN(ヨーロッパ素粒子物理学研究所)のティモシー・バーナズ・リーらによって開発されたサービス。研究者の間での効率的な情報共有が当初の目的だった。その後93年にアメリカのNCSA(National Center for Super computing Applications)でグラフィカルなブラウザ(→ ブラウズ)Mosaic(モザイク)が開発され一気に広まっていった。
WWWブラウザでWWWサーバー(Webサーバーともいう)にアクセスすると、文章やイメージや音などで構成されたハイパーテキストを参照できる。ハイパーテキスト同士はハイパーメディアとしてたがいにリンクされており、次々に関連の情報をさぐっていくことができる。このことを俗に「ネットサーフィン」(→ サーフ)とよぶ。各ハイパーテキストはHTML(Hyper Text Markup Language)とよばれる言語で書式などが指定されている。
WWWにはHTTP(Hyper Text Transport Protocol)とよばれるプロトコルがつかわれる。
インターネットとマルチメディア WWWを中心に、文章、画像、画、音といったマルチメディア・データが、インターネット上でつかわれるようになってきている。実際に日本でも、ミュージシャンのライブがインターネット上でリアルタイムに放映されたりしている。また、インターネット電話という名の、インターネットを利用して音声データをやりとりするサービスもある。
CMC(コンピュータに媒介されたコミュニケーション)
1985年 NTT電話回線をつかってパソコン通信できるようになった
1995年 日本でインターネットはじまる
メディアとしての電話にすでにヒントがある。
ポケベル文化→携帯メディア・インターネット
キーワード:
選択縁(地縁・血縁でなく自分で選択していくつながり)
番号告知→選択的コミットメント
「奥様は多重生活者だったのです」
メディアをつうじてさまざまな人間と選択的に多重的につながっていくことができる。
CMCは、公共圏(平等、公開、自立による民主的なつながり)の幻想が仮託されがち。

「制限メディア」
二世界問題(対面的世界とメディアの世界との関係)

制限されているからこそ、さまざまな束縛から解き放されてコミュニケーションできる。
顔の呪縛、職業の呪縛、年齢、学歴による先入観からの解放
制限された情報だからこそ想像によって展開できる、創造的展開(誤解)

対面的世界ははたして、メディア的世界よりも豊かで必ず真理なのか。
対面していても顔などみていない。記号と化した関係。
制限されたメディアによってはじめて見えてくることがある。
写真でとってみてわかる真実:「視覚的無意識」

対面的な現実を「至高の現実」とみなして、メディアの現実を「偽物」「仮のもの」と見なしていては解決しない。「至高の現実」をうたがってみよう。
メディアの現実によって私たちはさまざま現実をもち、そうして豊かな現実を取り戻しうるのである。
by takumi429 | 2007-05-22 10:05 | メディア社会学 | Comments(0)

10.マンガ

10.マンガ
遊びの心や風刺の精神でえがかれた絵。ストーリー性のあるものはコマ漫画・劇画・コミックなどともよばれる。

日本の漫画
鳥獣人物戯画
高山寺につたわる白描による戯画絵巻で、甲巻は擬人化された動物たちが生き生きと描かれる。この部分図はカエルとウサギによる相撲の場面で、見物のカエルたちだけでなく、なげとばされるウサギ自身もわらっている。勝敗は二の次の相撲ごっこといったところか。「源氏物語絵巻」「信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)」「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」とともに、日本四大絵巻にかぞえられる。12~13世紀中ごろ。
鳥羽絵 とばえ 江戸時代に流行した戯画で、人物を手長、足長に誇張して描く特徴をもつ。このスタイルは、月にてらされてできた人影からヒントをえたともいわれるが定かでない。鳥羽絵とは鳥獣人物戯画の作者といわれる鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)にちなんでつけられた名称。
鳥羽絵はもともと京都を中心に、扇や袱紗(ふくさ:→ ふろしき)といった身近な持ち物に描かれていたが、その評判は大坂にもつたわり、鳥羽絵が版本として出版されたことによっていっそう広まり、江戸時代を代表する戯画のひとつとなっていった。
c0046749_0193641.jpg


黄表紙 きびょうし 江戸中期以降おもに出版された、絵入り本の草双紙の一ジャンル。子供向け絵本からはじまった草双紙は、1760年代から徐々に大人の嗜好(しこう)にあうものが出版されるようになった。それらは表紙の色から、黒本、青本とよばれ、5丁(10ページ)1冊を定型とした。やがて青本の中から、洒落や滑稽み、荒唐無稽な諧謔のより強い作品が登場し、のちに黄色い表紙がつけられて、それらを黄表紙とよぶようになった。

c0046749_0201163.jpg

1775年(安永4)に刊行された恋川春町作(画も)の「金々先生栄花夢」は、それまで子供向けの幼稚な絵本でしかなかった草双紙に、黄表紙とよばれる大人向きのしゃれた絵本文学のジャンルを切り開くことになった。
c0046749_0282474.jpg


明治の漫画
1862年(文久2)、横浜居留地でイギリス人チャールズ・ワーグマンによって漫画雑誌「ジャパン・パンチ」が創刊され、日本の漫画界に影響をあたえた。
c0046749_0295561.jpg

ワーグマンが創刊した「ジャパン・パンチ」の1869年1月号に掲載された作品。

c0046749_0215834.jpg

1879年(明治12)10月に発布された改正徴兵令を風刺した漫画で、その年の「団団珍聞」12月6日号に掲載された。旭日旗とラッパをもった徴兵令が獅子舞のようにねりあるき、子供たちはにげまわる。その後ろに270円をお盆にのせてさしだす親の姿が。国民皆兵が実現するのは10年後の89年。79年当時は270円で徴兵は免除された。
c0046749_0211532.jpg

ビゴー「芸者と西洋人」
1882年(明治15)に来日したフランスの漫画家、画家のビゴーは、その後、雑誌「トバエ」などを刊行して日本政府を風刺する漫画を発表。ユーモアと共感をまじえて日本人の生活を描いた作品も多い。
1901年(明治34)、宮武外骨(がいこつ)が大阪で創刊した雑誌「滑稽新聞」は、辛辣な反権力漫画や過激な風刺文で人気を博した。このころ「時事新報」で漫画をえがきだした北沢楽天は、この雑誌に刺激されて、05年「東京パック」を創刊。同誌は、全頁カラー印刷という豪華さと、藩閥政治への辛辣な風刺漫画で人気を博した。
大正の漫画
c0046749_0224576.jpg

昭和戦前の漫画
「のらくろ」(田河水泡)
c0046749_023872.jpg

横山隆一「フクチャン」

昭和戦後の漫画
手塚治虫「新宝島」映画的と言われた手法。「ストリーマンガ」の誕生
それまでの漫画なら一こまですませる描写を細分化して生まれた新たな運動性
c0046749_0235013.gif


「鉄腕アトム」
アニメーションにもなった手塚の代表作。
「ジャングル大帝」とともにアニメはアメリカでも放映された。「ジャングル大帝」はデズニーの「ライオンキング」のヒントになった。


1977年に漫画は日本の総出版物の28%に達した。
60年代から大学生がマンガを読むようになった。
劇画(虚構の世界を現実のように描出した、漫画による物語)ブーム
c0046749_0241931.jpg

白土三平の「忍者武芸帳」と「カムイ伝」(徳川幕府による厳しい身分制度下、権力の重圧にあえぐ者たち。多彩な人物群と雄大な構 想、透徹した歴史観で綴る)

c0046749_02502.jpg

つげ義春「ねじ式」(昭和43(' 68)年 ガロ 6月増刊号)

『ガロ』:長井勝一の主宰した漫画雑誌(1964年9月創刊)


70年代から80年代にかけて少女漫画が創作の中心
池田理代子「ベルサイユのばら」
萩尾望都(もと)「ポーの一族」「トーマの心臓」
竹宮恵子「風と木の詩(うた)」
大島弓子「綿の国星」
樹村(きむら)みのり「菜の花畑のむこうとこちら」
山田紫「しんきらり」

c0046749_0253572.jpg

高野文子「絶対安全剃刀」(白泉社 1982年1月)
山岸凉子「日出処(ひいづるところ)の天子」
高橋留美子「うる星やつら」「らんま1/2」
 少女漫画のコマ割りなどの技法を少年漫画に導入。世界的作家となる。

c0046749_0261443.jpg

大友克洋「童夢」
それまで高校生や貧乏学生の日常やそこにひそむ狂気を多く描いていた大友克洋がはじめて手がけたSF長編がこの「童夢」。緻密で正確なデッサンと新鮮な構図、映画を思わせるコマ割りは漫画とその周辺の作家や評論家たちをおどろかせた。

江川達也「東京大学物語」 実験的画法と大衆性の結合

井上雄彦「バガボンド」 肉体の躍動の細部を拡大することで生まれるダイナックな絵とストリーの展開 筆による細密かつエネルギーの噴出を伝える絵
c0046749_0403965.jpg




巨大なメディアとしてのマンガ
日本の出版部数の4割はマンガ。
60代以下のあらゆる年齢層に読まれ、あらゆる題材を扱っている。
記号体系(世界)としてのマンガ
 マンガの絵は写実ではなく、絵文字(記号の一種である)。
なぜ日本でマンガがこれほど発展したか
 漢字(絵文字)とかな(表音文字)の併用が、絵と言葉との併用という表現体系を発展させるに適していた。
 マンガの絵は線によってさまざまな情感を付与される。
 吹き出しの形によって言葉はその情感と語り手を指示される。
 コマ割りによって時間と空間が圧縮されたり解放されたりする
      
by takumi429 | 2007-05-16 00:26 | メディア社会学 | Comments(0)

9.テレビ

9.テレビ
テレビジョンTelevisionの略称。TVとも略称する。静止画や動画を電気信号にかえてケーブルや電波で遠隔地に伝送し、受信機で画像を再現するもの。テレビジョンによる放送。放送するための施設、制度、放送内容、放送の視聴の総体。

歴史
1884年にドイツの発明家P.ニプコーは、回転する円盤をつかって有線で画像を電送する技術を開発したが、実用化しなかった。
1897年ブラウン、ブラウン管を発明
1907年ボリス・ロージング、ブラウン管使用のテレビを開発
1911年スウィントン、送像用陰極線管発表。
1928年アメリカのWGY局、テレビ実験放送開始 
1936年アメリカでNBCがアイコノスコープ(走査線方式)カメラによる実験放送を開始。
   各国も続々放送開始。
第二次世界大戦による放送中止
1944年7月 アメリカ合衆国、NBC、CBS、テレビ放送再開
1945年フランス、ソ連、テレビ放送再開
1946年イギリス、テレビ放送再開
1953年日本2月NHK、8月日本テレビ、開局
 
早川電機(現・シャープ)から白黒テレビ第1号が 発売されたが、14インチ型が17万5000円もした。大卒の初任給が5000円くらいの時代であった

街頭テレビ時代
 街頭テレビに集まる人々は、力道山の活躍に熱狂した。



1959年(昭和34年)4月1日、この日に開局したテレビ局は8社もあった。それは4月10日に 行われる皇太子(現・天皇)成婚パレードに合わせようとしたためであった。この年、1年でテレビ受像機の台 数は2倍の200万台に増えた。
1950年代のテレビ
右は、1951~57年にアメリカで放映され、人気番組となった「アイ・ラブ・ルーシー」の一場面。
シチュエーション喜劇「アイ・ラブ・ルーシー」
エド・サリバン司会の「街の有名人」(日本の放送タイトルは「エド・サリバン・ショー」)
1958年ラジオ東京(現TBS)のドラマ「私は貝になりたい」(フランキー堺主演) 芸術祭賞受賞
アメリカのドラマ輸入 1956年にラジオ東京が放送した「カウボーイGメン」を皮切りに、続々とアメリカ物が登場した。「アイ・ラブ・ルーシー」「アンタッチャブル」「ペリイ・メイスン」「ガンスモーク」「サンセット77」などである。

1960年ニクソンとケネディ、両大統領立候補者、テレビで討論
日本でカラー放送はじまる。
『シャボン玉ホリデー』
放送期間:1961年6月4日~1972年10月1日。11年間592回続いた。
放送時間:日曜日、午後6:30~7:00
クレージー・キャッツとザ・ピーナッツが主演した人気テレビ番組。生放送だった。
放送局:日本テレビ
出演:ハナ肇とクレージー・キャッツ、ザ・ピーナッツ、スリーファンキーズ、布施明、小松政夫、 中尾ミエ、なべおさみ、他。
脚本:前田武彦、斎藤太朗、河野洋、青島幸男、景山民夫
ディレクター:秋元近史
提供:牛乳石鹸
定番コント「お呼びでない?」 父親(ハナ肇)が病気で寝ているところへ、娘(ザ・ピーナッツ)が入ってくる。
ザ・ピーナッツ「おとっつぁん、お粥ができたわよ」
ハナ肇「いつもすまないねー。 おっかさんが生きていてくれたらなー」
ザ・ピーナッツ「それは言わない約束でしょ」
そこへ突然植木等が登場して場違いの行動をする。一同、植木等をにらみつける。
植木等「お呼びでない? お呼びでない? お呼びでないね。 イッヒッヒッヒ。 こりゃまた失礼し ました」
一同ずっこける。

「ひょっこりひょうたん島」
動く島「ひょうたん島」に5人のこどもとさまざまな生い立ちの5人のおとなが、偶然の機 会から住みつくことになり、「ひょうたん島」とともに海上を流されながら行きついた、ライオン 王国や犬の国ブルドキアなどで、想像もつかない大事件に巻き込まれるという、夢と冒険の 物語。いろいろな事件を通して、こどもたちに正義や愛や勇気の本当の意味について理解 させ、人生に生き抜く力を育てることをねらいとしている。 NHK年鑑 '65
放映期間:1964年4月6日~1969年4月4日。1224回
放送局:NHK
放送時間:月曜日~金曜日、午後5:45~6:00
作:井上ひさし、山本護久
音楽:宇野誠一郎
アニメーション:久里洋二
人形:ひとみ座
島の案内 火山の爆発をきっかけに、突然大地から切り離され島となって漂流し始めた。島は全長 8000mのひょうたん形で、酸性土壌のため農作物を作るのには向かない。火山爆発前は人口564 人と伝えられる。島は徐々に独立国家としての形が整ってくる。
ひょうたん島は、三陸地方碁石海岸の蓬来島がモデルと言われている。

テレビドラマ
連続テレビ小説 (朝の連続テレビドラマ 新人女優の発掘と育成)
1966年「おはなはん」 41年4月4日~42年4月1日 作小野田勇 45.8% 樫山文枝、高橋幸治主演 
ホームドラマの時代 『ただいま11人』
1970年松竹の監督で名作『日本の悲劇』を撮った木下恵介がTBSに『木下恵介 人間の歌シリーズをはじめる

1972年 連合赤軍の浅間山荘事件を長時間中継。累積到達視聴率98.2%(ほぼ日本人すべてが見た計算)。

1977年 岸辺 のア ルバ ム77/ 6/24 ~9/ 30 作:山田 太一 脚本:山田 太一
演出:鴨下信一、 佐藤虔一、 片島謙二、 内野健
出演:八千草薫、杉浦直樹、中田喜子、国広富之、竹脇無我、風吹ジュ ン、沢田雅美
多摩川沿いにすむ一見平和そうな、中流家族だが実はバラバラ。妻(八千草薫)は日常に絶えきれずハン サムな男(竹脇無我)と互いの家庭を壊さないという約束で浮気、夫(杉浦直樹)は仕事のためならモラルも捨 てる会社人間、娘(中田喜子)はアメリカ人にだまされて犯され中絶、大学受験中の息子(国広富之)はそんな 家族の秘密を知り思い悩み、家出する。崩壊寸前の家族は、多摩川の氾濫によりローンで建てた家を流されて終わる。家族の再生をにおわせては いるが、根本的にはなにも変わっていない。

1980年 CNN 放送開始(Cable News Network  アメリカの実業家テッド・ターナーが、1980年に創設したはじめての24時間ニュース専門ケーブルテレビ(CATV)放送局。)
1985年ニュースステーション (月~金)21:54~23:06(10月7日放送開始)司会:久米宏 
 ニュースのバラエティ化
1991年 湾岸戦争 CNNの画像が世界中に配布される。現実感の喪失

もう一つの日常世界
(私たちはテレビと生きている)
テレビの時間量
(3曜日・男女層別・全員平均時間)
2000年国民生活時間調査(平成13 年2月NHK放送文化研究所)

この調査は5年に1回のもので、1995年の平日3時 間19分が6分増えて3時間25分に、日曜日は10分 増えて4時間13分となり、テレビ視聴時間は平日 と日曜日で過去最高を記録した。


行為者率と全員平均時間(国民全体)


考察
テレビは現実を映しているのではない。
テレビと共にあることが私たちの現実世界なのだ。
テレビのなかのドラマを現実と錯覚する人間はいない。ではそれが映し出していることを私たちはどうのようにとらえるのか。

手がかり
ニュース番組、スポーツ番組が増えた。
ニュース番組では無意味なのに現場から記者にしゃべらす。
ドラマはトレンド(流行)を取り込む
「今ここ」(現実性)の強調

映画は神話的スターを生んだが、テレビはスターを脱神話化してタレントを生む。
初期のテレビに比べてバラエティ番組がふえている。登場するタレントはほぼおなじ。
ニュースを題材にした一種のバラエティ番組が増えた。ニュースステーション
凝った作り物からばらけた生ものへと移行している。
もともとコマーシャルによる中断や映像の過剰な饒舌さはテレビの内容を一元的に解釈させようとする制作者の意図を裏切る。
視聴者もザッピング(チャンネルを頻繁に変える)や一緒に見ている者同士の間での容赦ない批判によって制作者の意図を乗り越えていく。

ドラマ→出演者をつかったらクイズ番組・バラエティ番組+パロディによるお笑い
本物を知らない人がみている物まね番組
批判的は解体をみずから実行している。

テレビは批判的なメディアである。
テレビの視聴者は映画の観客のように集中していないし、陶酔もしていない。
かつてのラジオの聴取者のように一対一のパーソナルな近親感をもっていない。
テレビの視聴者は画面からさまざまなことを読みとる批判的で創造的な人々である。
テレビの放送内容はいわば視聴者の態度にその番組内容を似せてきているのである。

テレビの送り手が見せかける、「これが現実だ」というメッセージをかいくぐって、さまざまな視聴者が多声的に多様な現実を読み解こうとする、そうした葛藤の場としてテレビはある。

参考文献
J.フィスク著(伊藤守 他訳)『テレビジョンカルチャー ポピュラー文化の政治学』(梓出版社)1996年
by takumi429 | 2007-05-12 17:19 | メディア社会学 | Comments(0)

8.ラジオ

8.ラジオ
無線による音声・音響の放送,およびその受信機

歴史
1864年J. C. マクスウェルによる電磁波の存在の予言
1888年H. R. ヘルツによるその存在の実証
1895年イタリアの G. マルコーニが無線通信の基本技術を発明。
1904年J. A. フレミングの二極真空管の発明
1906年L. デ・フォレストの三極真空管の発明
第一次世界大戦 中無線電信・電話は,に急速に進歩。こうした技術の発達を背景に,一般公衆を対象とするラジオ放送が生まれた。
1920年11月2日、アメリカ,ペンシルベニア州ピッツバーグの KDKA 局が行ったハーディング大統領の選挙報告(世界最初の正式放送)。
1921年フランスでラジオの正式放送はじまる。
1922年イギリス、ソ連でラジオの正式放送はじまる。
1923年ドイツ、ベルギーでラジオの正式放送はじまる。
1924年イタリアでラジオの正式放送はじまる。
1925年3月22日(これがのちに放送記念日となる)日本でラジオの正式放送はじまる。
社団法人東京放送局が東京芝浦の仮放送所で放送を開始。翌26年8月,東京,大阪,名古屋の3局が合併,社団法人日本放送協会が設立され,日本のラジオ放送の普及が精力的にすすめられた。
1951年最初の民間放送のラジオ(中部日本放送と新日本放送(現,毎日放送))も開局された。

国民的同調装置としてのラジオ放送
1933年よりローズヴェルト大統領第「炉辺談話」(ファイアーサイドチャット)
1933年ドイツのナチ党のヒットラー首相になる
ラジオは宣伝省(大臣ゲッペルス)管轄下に
「国民受信機301」(フォククスエンプゲンガー)の販売普及につとめ、1938年には
世帯普及率は70%をこえる。
「強制的同一化」(Gleichschaltung)←「同調する」gleichschalten
1928年昭和天皇即位のラジオ実況
御大典記念事業として「ラジオ体操」始まる
「大本営発表」のラジオ放送
1945年8月15日「玉音放送」 敗戦を8月15日と錯覚。公式には9月2日降伏文書調印が終戦争であるべき。ラジオ放送の影響の大きさの皮肉な実証。
ラジオ・デイズ
1928年~アメリカのラジオの隆盛。アクション冒険物と芸人による寄席演芸風のコメディがラジオにあふれた。
1930年クロスレー聴取率会社が設立され、聴取率競争が進行。大恐慌による経済停滞から第2次世界大戦へと社会情勢が緊迫化していく中、ラジオはいぜん好調で、人々は夜は家庭でラジオの娯楽番組や冒険物語にくつろぎ、戦争と恐慌の時代の緊張から解放された。
日本では1950年の朝鮮戦争による好況とスーパー受信機の普及により、ラジオの成長がつづいた。庶民感覚の娯楽番組、地元密着の情報番組、在野ジャーナリズムにたったニュース報道番組など、民放ラジオは聴取者に好感をもってうけいれられた。一方、NHKもこれに対抗して「とんち教室」「20の扉」「陽気な喫茶店」「夢声百話」「社会の窓」など強力な娯楽情報番組をそろえ、大衆路線をひろげた。その中から「君の名は」の大ヒットが生まれた。

マス・パーソナル・コミュニケーション
1950年代テレビジョンの出現、ラジオは聴取者をテレビに奪われ,広告メディアとしての地位も急速に低下。
生放送を軸に身軽に動ける特性を生かした生活情報,音楽番組中心の番組編成,あるいは特定層を対象とした番組に活路を見いだす。
60年代後半 若者向け深夜放送 (森本レオも東海ラジオのパーソナリティだった)
90年~『ラジオ深夜便』高年齢層を対象としたラジオ番組

ラジオのもたらす世界
 考察の手がかり
1.オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』の放送を聞いた人々が本当に火星人が襲来してきたと思いこみ大混乱を起こした。

「オーソン・ウェルズ
アメリカの俳優、監督、プロデューサーとして活躍したオーソン・ウェルズは、はやくから演劇の世界に入り、斬新(ざんしん)な舞台づくりにとりくんだ。1938年にH.G.ウェルズ原作による「宇宙戦争」をラジオドラマ化した際、放送を聞いた視聴者が実際に異星人から攻撃されていると思いこんでパニックになったのは有名な話である。その後、映画史上の最高傑作にかぞえられる「市民ケーン」(1941)を製作し、監督、脚本、主演までこなしたが、そのとき彼はまだ25歳の若さだった。 」

2.満州国から日本住民を置き去りにして関東軍は逃げ去った。その際、逃走の混乱を免れるために住民にまだ安全だからとどまるようにと放送した。満州国内の日本人民間人はそれを信じたため逃げ遅れた。

人間は自分の声を聞いている。声を発するたびに自分へも語りかけている。外に向かう声を「外語」、自分にもどってくる声を「内語」とするなら、「外語」は絶えず「内語」へと重なってくる。
映画が「夢のすりかえ」をもたらすものだとしたならば、ラジオは「内語」(独白)のすりかえをもたらす装置なのかも知らない。
それに比べれば視覚というのは対象と距離をもちそれを突き放すかなり批判的な感覚である。
声の作り出す世界は一体感のある、包み込むような世界である。それは直接的で情動的ですらある。ラジオがもたらす世界は直接我々の情動に働きかけるような空気の波動のような世界であり、そこでは本来の場所の感覚が失われる。
by takumi429 | 2007-05-09 23:59 | メディア社会学 | Comments(0)

7.映画

7.映画
スクリーンには1秒間に24コマが連続して映写される。人間の目がある映像をうけとって脳に情報をおくり、インプットされて1つの映像として理解するまでには0.25秒かかる。したがって、24分の1秒ごとに映像の情報をおくると、像がきえるスピードを上まわり、前の映像がのこったまま(残像現象)次の映像が重なる。その結果、スクリーンにうつった映像は1つになってみえ、人や物体の動きを連続してとらえた写真は、連続してうごいているような錯覚をあたえる。

歴史(以下他サイトからの引用による構成)
ソーマトロープ1825年、J・パリスとW・フィトンによって発表された。表と裏にちがった絵のかかれた丸い板で、両はしにつけられた糸の反動でくるくる回転するようになっている。
c0046749_20321899.jpg


フェナキスティスコープ1832年にベルギーの数学者プラトーが考案。同じころほとんど同じ道具(ストロボスコープ)をウィーンのシュタンプファーも作っている
c0046749_20205112.jpg


ヘリオシネグラフフェナキスティスコープを改良して、鏡を使わなくても見られるようにした道具。スリット(切れこみ)の入った板とは別に絵のかかれた回転ばんが取り付けてある。。この2枚の板を同時に回転させ、スリットからのぞくことによって鏡に映したのと同じように、動く絵を見ることができる。

c0046749_20222716.gif


ゾートロープ
スリット(切れこみ)を使って残像現象(ざんぞうげんしょう)を作り出す装置。1834年にイギリス人のウィリアム・ホーナーが発明。回転するように作られたつつの内側にアニメーションのもととなる絵が同じ間かくでかかれている。つつを回転させスリットから中の絵をのぞくことによって、動く絵を見ることができる。

c0046749_20231428.gif


プラクシノスコープ1877年、自然科学の教授だったエミール・レイノーが開発。ゾートロープはスリット(切れこみ)を利用した残像方式だったが、プラクシノスコープは、これを鏡を利用した残像方式に改良した道具。上からのぞきこめるので、ゾートロープよりさらに多くの人が一度に見ることができた。
c0046749_20245171.gif


1882年、レイノーはプラクシノスコープを改良して投影式のプラクシノスコープを作成。鏡に反射させた映像をスクリーンに映し出した。
c0046749_20253093.jpg


テアトルオプティーク 1888年、エミール・レイノーが完成。投影式のプラクシノスコープをさらに発展させた物で、パーフォレーション(フィルムの穴)もつけられた、透明のフィルムを上映するという本格的なものだった。
c0046749_20391293.jpg


エジソンのキネトスコープ 1894年 エジソンのキネトスコープ kinetoscope 1893年のシカゴ万国博覧会でキネトスコープを発表。「のぞきからくり」とも呼ばれたように、拡大して映写することはできませんでしたが、アニメーションではない動く白黒の写真を見ることができた。エジソンは世界で最初の映画撮影スタジオを設立すると、エドウィン・S・ポーターらを配下に数多くの劇映画作品を生み出した。

c0046749_20264599.gif

c0046749_20274075.jpg


c0046749_2044473.jpg

くしゃみの記録」(1894年)

c0046749_20301165.jpg

「アーウィンとライスの接吻」(1900年)

ビオスコープ bioscopeドイツのスクラダノフスキー兄弟によるふつうのロールフィルムで撮った連続写真をスクリーンに拡大映写した。シネマトグラフ 95年12月28日,パリのグラン・カフェの〈インドの間〉で世界最初の有料試写会が行われた。


リュミエール兄弟が発明した撮影機
c0046749_20341674.gif



c0046749_20345166.gif

「工場の出口」(1895年)

c0046749_20352037.gif


ラ・シオタ駅への列車の到着」(1897年)

フランスの奇術師ジョルジュ・メリエス ファンタジー「月世界旅行」(1902)
c0046749_20354287.jpg



ポーター監督の《大列車強盗》(1903) 〈ストーリー・ピクチャー(劇映画)〉05年- ニッケルオデオンと呼ばれる映画館(5セントのニッケル硬貨1枚で入場できたので〈5セント劇場〉)とも呼ばれた)
c0046749_2036111.jpg


グリフィス David Wark Griffith 1875~1948南北戦争(1861~65)をえがいた12巻の長編映画「国民の創生」(1915)
c0046749_20364143.jpg


サイレント・コメディ
マック・セネット Mack Sennett 1880~1960
チャップリン Charlie Chaplin 1889~1977 『街の灯』(1931)
c0046749_2037225.jpg

ヨーロッパのサイレント映画
ソ連 エイゼンシュテイン Sergei Mikhailovich Eisenstein 1898~1948 「戦艦ポチョムキン」(1925)
c0046749_20375051.jpg

ドイツ ウーファ(UFA)


初期のトーキー
ギャング映画とミュージカル映画
カラー映画の発達
イタリア映画の復活
フランス映画とヌーベル・バーグ
ニュー・ジャーマン・シネマ
アメリカの新しい映画監督


小括

残像効果による連続性の幻影のなかに垣間見られる世界
時間は細分化されたのちふたたび連続化される。
連続化においてカメラによってとらえられた時間と空間はさまざまな接合され構成さ
れなおす(モンタージュ)
切り取られ張り合わされた時空間によるもう一つの世界
世界としての統一性のために音楽がしばしば使われる
観客はその世界を享受する
それはしばしば夢にたとれられる世界
だがそれは基本的にアメリカの夢である。
映画は圧倒的にアメリカ映画である。
ハリウッドは世界中の映画の才能を自らのもとに集めて発信しようとする。
「夢のすり替ええ」がおきているのかも知れない。
黒髪の少女の手を握った学生服の少年の夢は
ブロンド娘を抱く毛唐の男の夢にすり替えられる
映画館の集中した雰囲気のなかで
監督が構成しなおした時空間の世界に浸りきる。
抵抗と批判はむずかしい。
茶の間で会話をしながらそれを解体する作業はテレビの出現を待たねばならなかった。
by takumi429 | 2007-05-06 20:30 | メディア社会学 | Comments(0)

6.写真 Photography 

6.写真 Photography 

写真 しゃしん Photography 光によって、ひきおこされる化学変化で、感光面に恒久的な画像を記録する技術またはその画面のこと。

歴史

カメラ・オブスキュラ


「カメラ」という用語は、ラテン語で「暗い部屋」あるいは「暗い箱」を意味する「カメラ・オブスキュラ」に由来する。最初のカメラ・オブスキュラは、1枚の壁にごく小さな穴のある暗い部屋であった。この穴から部屋にさしこむ光は、反対側の暗くした壁に像を映しだす。この方法でつくられた像は上下が逆になり、ぼやけていたが、芸術家たちはフィルムが発明されるずっと以前に、小さな穴が投影する像を手でスケッチするために、この装置を使用した。初期のものから3世紀以上が経過して、16世紀にはカメラ・オブスキュラは手でもてる大きさの箱へと発達し、小さな穴には像をシャープにする光学レンズと絞りがとりつけられた。

ダゲレオイプ

1826年、フランスの発明家ニエプスにより「ヘリオグラフ」として知られる記録上のもっとも初期の写真は作成された。

c0046749_02050.jpg

31年ごろにはフランスの画家ダゲールは、ダゲレオタイプという写真を発明。ダゲールの方法では露光をするたびに銀板上に像をつくりだすことはできたが、複製することはできなかった。
c0046749_022250.jpg


カロタイプ

イギリスの発明家タルボットの考案した定着処理は、未露光のヨウ化銀粒子をとかし、銀板全体が黒くなるのをふせいだ。タルボットは何枚もプリントをつくることのできる紙のネガをつかう写真法を考えだした。
c0046749_024594.jpg


マイブリッジ(米)
連続写真
瞬間の連続としての時間
c0046749_043360.jpg


c0046749_23391455.gifc0046749_23402472.gif
c0046749_23571444.gif




マルセル・デュシャン
c0046749_0224649.jpg

「階段を降りる裸体 No.2」1911年    
                 

肖像画写真
フェリックス・ナダール(Nadar)
c0046749_032142.jpg


記憶の装置としての写真
都市の記憶
ウジェーヌ・アジェ
死んだように静止した都市の肖像
被写体との関係性が写し込まれる
c0046749_23502724.jpg


私写真
センチメンタルな旅・冬の旅 荒木経惟(あらきのぶよし) 新潮社 1991年

荒木「一回妻の死に出会えばそうなる。」 篠山「ならないよ。女房が死んだ奴なんていっぱいいるよ。」 荒木「でも何か を出した奴はいない。」 篠山「そんなもの出さなくていいんだよ。」 (中略)
荒木「虚実とかそういうのを超えちゃって、んなこと、ポンと忘れさせなきゃだめなんだよ。」 篠山「それで何を見ろって言 うの。」 荒木「純粋に写真を見るんだよ。」 篠山「そうじゃないじゃないか。ここにあるのは単なる陽子さんの死にすぎな いよ。彼女の死ということの悲しさが直截に伝わってくるだけじゃないか。」 荒木「それが写真なんだよ。」新潮社の雑誌「波」(1991年2月発行)より

この対談でじつは篠山は荒木に対して敗北宣言も同然の発言をしていることに気づいていない。「彼女の死ということの悲しさが直截に伝わってくるだけじゃないか。」 これ以降、ともに日本写真界を大きくリートしてきた両雄のバランスは荒木に大きく傾くことになった。


痕跡としての写真
c0046749_061214.jpg


石内都
「石内都は1947年に生まれ、多摩美術大学で染織を学んだ後、 70年代半ばに写真と取り組み始めました。 街や 建物に視線を向けた初期の作品は高く評価され、 79年にはシリーズ「アパートメント」で女性としては初めて、 第 4回木村伊兵衛写真賞を受賞しました。
1980年代末から90年代を通して、石内の仕事は、 自分と同年生まれの女性の手足を写した「1・9・4・7」など、 人 間の身体の表面を接写する一連の作品を中心に展開してきました。 同い年の同性の手足というモチーフから始 まったこの仕事は、 しだいに年齢や性別を越えて対象を広げて行き、 その過程で石内は傷痕というテーマに出会います。
街や建物を被写体としていた初期の作品でも、石内の写真には、 その場に残る人間の「生」の記憶や痕跡と いったものが色濃く捉えられていました。 人間の身体の表面である皮膚も、 その人の「生」を反映してさまざまな 表情を見せます。 傷痕はそうした身体の表面にあってとりわけ特別な、 時間や記憶の結節点ともいうべきものです。写真家はその特別な意味、 そこにある時間の重みを真摯に受けとめ、 丁寧に写真というもうひとつの表面 に移しかえていきます。 モノクロームの写真の表面に移しかえられた傷痕は、 個としての人の上に起きた出来事 の痕跡であることを超えた何かとして、 それを観る私たちの前に現れます。
「SCARS」を中心に、人間の「生」の記憶や痕跡、そしてそこ に流れた時間を、 さまざまなかたちで写真の表面に移しかえてきた。石内都の写真の本質とその魅力とは直接、モノクロームの印画紙から感じ取れます。」(サイトからの引用)


明治期の小説における家族写真
島崎藤村『家』 
一族の写真から死んでいく子供の写真へ
写真をめくっていくように進行する小説の時間
線状の時間の成立を支えているのが写真の連続である。


小括
写真は光の痕跡として生まれたものである。
記憶が痕跡として残される。
写真には撮る者と撮られるものとの関係性が取り込まれる。
写真的な時間によって我々の時間は細分化され、その連続として構成される。
私たちは決して経験することのない静止した時間のイメージに魅了されつづける。
そこには日常現実とは異なった静止した過去の時間の世界が広がっている。
私たちはそれらイメージの堆積した世界をみずからのなかに構築している。


文献
飯沢 耕太郎 『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)
http://www.masters-of-photography.com
by takumi429 | 2007-05-02 22:14 | メディア社会学 | Comments(0)

5.電話

5.電話


1876年 アレキサンダー・グラハム・ベル 電話を発明

アレキサンダー・グラハム・ベルは、1875年にこの電話機をつくった。この電話機の仕組みは、導線をまいたコイルでできた電磁石の前に金属製の振動板をとりつけて、音声がその振動板にあたるようになっていた。そして、その振動に応じて導線の電流を変化させるのである。この電流が受信機にながれ、受信機の電磁石に電流の変化をおこして、振動板を振動させて元の音声を再生するものだった。


先行研究

1854年 フランスの発明家シャルル・ブルサールは、に音声によって振動する板を利用して、電気的に通話する方法を提案。

1855年 1861年 ドイツ人物理学者ヨハン・フィリップ・ライスがブルサールの提案を実験し、フランクフルトの物理学界で報告。

1860年 フィリップ・ライス 「テレフォン」:振動膜によって電流を断続させて離れた地点まで送信する装置


電信(文字や符号、あるいは写真などを電気的な符号に変えて隔たった場所で再現する通信)

1837年 アメリカの発明家モース、電信用電気装置を発明。


電話が発明された1876年当時、電信は8500カ所の電信局と21万マイルの電信線がアメリカ全土をおおっていた。

電話は電信のイメージに規定されていた

 想定された使用法:ビジネス用の通信
 当初の従業員:もと電信の従業員


 新しいメディアは古いメディアの内容を引き継ぐことからその歴史を始める

 
有線放送としての電話

 有線ラジオ的な娯楽メディア

1881年 パリ国際電気博覧会  オペラ座・テアトル・フランセの公演中継

1890年 パリの電話会社 市内劇場の公演の実況中継を始める

1896年 イギリスの電話会社 ロンドンの劇場娯楽の電話による送信を始める

1893年 ハンガリーのテレフォン・ヒルモンド 電話を使って方法を開始。以後20年以上にわたって6000世帯の加入者に放送を送った。



女性交換手の登場

 男性交換手(多くはもと電信従業員)の怠惰と粗暴
 女性交換手に切り替えられていった。
 男性が求める女性像に電話交換手は一致したという分析がある。

 
利用者が利用法を発明

 ビジネス中心の用件伝達メディアと開発者たちはみなしていた。
 都市中心、男性中心の拡張戦略
 実際には地方にひろがった。
 女性によるおしゃべりと社交に用いられるようになった。



電話は一日的な公的なメディアから双方向的な私的なメディアへと変化した。
そうした利用の仕方を発見したのはむしろ利用者だった。
日本でも昔は電話が玄関口にあった。それが次第に居間へ、さらに個々の部屋に、さらに携帯へと入り込んできた。


なぜそうした転換が生まれたのか。
聞くことと見ること 聴覚と視覚
聴覚のもつ空間性  包み込むような一体感
母語の担い手である女性が電話でもとめられたのではないか。


電話が作り上げる世界
安岡章太郎『ガラスの靴』(1951年)
村上春樹『若い読者のため短編小説案内』(1997年)の分析

(1)「ぼく」は現実を離れた悦子に惹かれ、彼女を追いかけている。追いかけないわけにはいかない。
(2)しかし「ぼく」が悦子に追いついてしまえば、「ぼく」は彼女を現実化してしまうことになる。現実化された悦子は「ぼく」の求める悦子ではない。
(3)しかし「ぼく」がひとたび悦子を追いかけることをやめたら、今度は現実が単純に「ぼく」に追いついてしまう。(106頁)
電話は現実とは異なるもう一つの世界へ通り道(メディア)として描かれている。

電話は目に見える世界とは異なる、声の親密な世界を作り上げている。そこではいわゆる有意義な情報の伝達は必要ない。

電話機はそうした親密な世界の入り口である。いったんそうした世界が作り上げられたならその世界の回路の上に、文字(メール)や写真(写メール)も伝達流布することができる。
by takumi429 | 2007-05-02 22:09 | メディア社会学 | Comments(0)

4.新聞

4.新聞

「日刊または週刊で刊行される定期刊行物で、おもにニュース報道とニュースの解説を伝達する無綴(と)じの印刷物である。また公共政策の提唱、特殊な情報の提供、読者への助言、娯楽などの役割もはたす」。

印刷物とのちがいは、新聞が、読者、発行者、情報の発信者との間の継続的な関係をつくっていること。週刊ならその週のうちに、日刊ならその日のうちに、みんなが読んでいるとされている。(読者共同体が一定期間の間に一斉に読んでいることが反復される)。(一紙を複数の人間が読むことも多い)。一定期間だけに限定されて読み捨てられる(だから新聞紙をつかう)「一日だけのベストセラー」

発生の必要
 面談によるコミュニケーションだけでは伝わらない情報を人々が必要とし始めた。つまり人々が顔見知りの範囲をこえた交易、交際、協同の関係を持つようになった。
 資本主義経済(商品経済)の進展による交易圏の拡大
 国家の成立による国民の政治への関心

発展の技術的条件
 大量の印刷物を印刷する印刷機
 情報を得るための電信などの通信機器
 配布するための鉄道網、輸送網、通信網(衛星通信による発行)

新聞がもたらす世界
 読者たちが緊密にニュース・ソースたる国家に結びついている。
国家という枠組みが日付で刻まれる時間の中を進んでいく。


歴史
 近代的の政府の登場とほぼおなじく新聞が登場してくる。
政府は新聞を統制・検閲しようとするが、同時に新聞によって政府の活動を広報する必要を感じてきた。
アメリカ合衆国ではとりわけ新聞が合衆国のまとまりを支える機能をしてきた。しかし派手なゴシップと廉価な新聞(イエロージャーナリズム)の勝利した。基本的には地方紙が主流。全国紙はウォール・ストリート・ジャーナルとUSTody。

日本の新聞

歴史
 大新聞(明治3-5~)政論新聞、政党新聞 横浜毎日新聞(明3~)、東京日日新聞(明5~)、朝野新聞(明5-26)
小新聞 読み物中心 読売新聞(明7~)、朝日新聞(明12~)
独立新聞 不偏不党 時事新報(明15-30、万朝報(明15-昭和25)
大阪系の「大阪朝日新聞」と「大阪毎日新聞」の東京進出
日露戦争の報道合戦による大阪系新聞の躍進
関東大震災(1923)による東京系新聞の弱体に乗じて大廉価戦術で大阪系「朝日」「毎日」の勝利。東京系では「読売新聞」(もと文学新聞)から元警察官僚正力松太郎が買収して、プロ野球などの事業・イベント・販売により巨大化。
満州事変[1]、日中戦争[2]  戦争熱をあおる。ナショナリズムの昂揚
一県一紙体制(1940年[3]頃から国家統制の指導により)はじまる(戦後も引き継がれる)
全国紙(朝日、毎日、読売)、ブロック紙(北海道新聞、中日新聞、西日本新聞)、県紙(岐阜新聞、神奈川新聞などなど)の体制が継続。
全国紙が放送業界も統合。朝日が朝日放送、読売が日本テレビ

特徴 
記者クラブ(国会、官公庁などの諸機関に配属された報道各社の記者が、取材活動のために組織した団体。また、その詰所)による取材
 記事の均質化(不偏不党の実体)、官報と差がない(差があるように思わせるための批判的な態度)、政府との密着

リーク情報による世論操作
「一県一紙」の指導(1941年)によって県政と密着した一紙
 県レベルが国家レベルの縮小再生産になっている
 内閣支持率を錦の御旗にして政治に関与したがる
「~人気」「不人気」といった根拠の乏しい「殺し文句」の多用
政局の報道があってもそれがどういう意味を持つのか論じない。
見識がない(→「政治ジャーナリズムの罪と罰」/田勢康弘/94年、新潮社)4

見識のなさの例:『大学ランキング』(朝日新聞)
数値から言えるランキングをたくさん並べただけ
cf.US News and World Repots の大学ランキング
さまざまな指標から総合的専門ごとにランキングづけしている。

「高級紙」という錯覚 
松井の大写し写真と裸雑誌の広告が載っていて何が高級紙だ!
コラム(「天声人語」など)の論理のなさ(→入試に出題しやすい難解さ)
 天気や自然のこと寄せて政治を揶揄する卑屈さ(奴隷のことば)

高い購読率
週刊誌のゴシップ記事化
(女性誌の方が文化的)
限りなくコッシップ報道にちかい政局報道
政策議論が乏しい。
都合の良い読者投稿の選択と改竄(?)

海外滞在の経験
 日本の4倍くらいの値段の衛星通信版
 永田町情報しかなく、日本という国の生活社会がみえてこない。

例:皇太子結婚報道
海外新聞:キャリアウーマンの皇太子妃についてのコメント
朝日新聞:パレードの順路地図と二人の写真を並べて掲載。
韓国・朝鮮の報道がほとんどない。
在日コリアンは、朝鮮半島に国籍を置く在日韓国、朝鮮人の総称。 日本の国際化に伴 い、在日外国人登録者数は年々に増え、その数は151 万人(99/05)を超えますが、そのうち在日コ リアンは約63万人。
在日外国人の母国(中国、ブラジルなど)の報道もほとんど皆無。

新聞がもたらす世界
日本人しかいない日本というイメージ
「これが日本だ」というイメージを与える装置
新聞を通じて国政に参加しているという錯覚
--------------------------------------------------------------------------------

[1]まんしゅう‐じへん(マンシウ‥)【満州事変】 昭和六年九月一八日の柳条溝事件を契機とする、日本の関東軍による満州侵略戦争。若槻内閣は不拡大方針をとったが、危機に立つ日本資本主義は経済的にも軍事的にも満州占領を望み、軍は政府の方針を無視して満州全土を占領、翌年三月に満州国を独立させた。

[2]にっちゅう‐せんそう(‥センサウ)【日中戦争】 昭和一二年蘆溝橋事件をきっかけとして起こった、日本と中国との全面戦争。日本軍は政府の不拡大方針を無視して戦火を全中国に拡大して北京・天津・上海などを攻撃、国共統一戦線の激しい抵抗にあうと次々と大軍を投入し、中国政府は重慶にのがれて抗戦を続けた。日本は汪兆銘を援助して南京に政府を樹立させたが、国際的に承認を得られなかった。同一六年、太平洋戦争が始まるとその一部となり、同二〇年八月の日本降伏まで続いた。支那事変、日支事変、日華事変、中日戦争と種々の呼称がある。

[3] 「1940年体制」:野口悠紀雄・東京大学先端科学技術センター教授が提唱している概念。

いわゆる「日本的な」制度や習慣――終身雇用、年功序列、行政指導(お上意識)、間接金融(企業が証券市場ではなく銀行から資金を調達すること)、地方交付税交付金、納税者意識の低さ(源泉徴収制度)、企業別組合、職場中心の集団主義(反個人主義)、(悪)平等主義(反能力主義)など――は、すべて日本の伝統や歴史とはまったく関係がなく、1940年頃、総力戦としての太平洋戦争(日中戦争)を遂行するための戦時体制の一環として、当時の政府の官僚たち(革新官僚)によって人工的に作られたものであるという説。(「革新官僚」とは、国家社会主義的な政策や、官僚主導の強力な国家統制を標榜する人々)
by takumi429 | 2007-05-02 22:07 | メディア社会学 | Comments(0)

3.印刷革命

3.印刷革命

(1)印刷革命から出版革命まで

パピルス
古代エジプトでは、湿地に生育するパピルスを採取し、中心部を切りだして直交するように重ねて圧力をくわえてつくる。紙が発明される以前は、文字や図像を記録するためにつかわれた。巻物にしかできなかった。


中国での紙の発明
書を書くもの
竹簡(ちっかん)
中国古代に使用された文書の記録材。竹の節と節の間を縦割りにして、単独で墨書するほか、絹・麻糸で横綴にして文書を記録した。
木簡(もっかん)
文書記録の材料の一つ。中国古代にみられ大きさは長さ三〇センチメートル・幅三センチメートル内外であるが、一定しない。平城宮跡などから出土したものには荷札として使われたものもある。
絹布 高価 白絹に文字や絵を書いたものを〈帛書はくしょ〉〈帛画はくが〉と呼んでいる。

紙の発明
紀元前2世紀ごろからすでの存在したらしい。中国の「後漢書」「宦者列伝」に、宦官[1]の蔡倫(サイリン)が105年に、樹皮、布、魚網などをつかって紙をつくったという記録がある。蔡倫は、アサ、竹、イネわら、コウゾなどを原料とした紙の製法を改良しまとめた人物と考えられる。



中国では仏教のお経や道教の護符などを木版印刷した。
中国では陶器の活字があり、1400年頃には朝鮮には銅製の活字があり、それは16世紀に日本にももたらされた。だが印刷の主流は木版印刷であった。漢字の文字の多さがその第一の原因と考えられる。

紙の西洋への伝播
ヨーロッパにおける活字[2]印刷の発明
グーテンベルグの活字印刷の発明(15世紀)
42行聖書(The Book)の刊行 
アルファベットと紙と活字との出会い

1445年ごろ、ドイツの金銀細工師であったグーテンベルクは、鉛、スズ、アンチモンの合金をつかった活字を製作し、さらに、ブドウ絞りの機械からヒントをえて、版に強い圧力をくわえて印刷する活版印刷機を発明した。彼はこの印刷機で聖書を印刷した。この発明によって、従来、必要に応じて木の板にほりこんでいた労力から解放され、印刷技術に大きな進歩をもたらした。活版印刷の技術は、火薬、羅針盤の発明とともに、ルネサンス期の3大発明といわれている。
「四十二行聖書」はグーテンベルクの最初の印刷本といわれ、1455年ごろにつくられた。1ページ2段組みで、1段が42行あるところから、この名でよばれ、可動式の金属活字によるみごとなゴシック体で印刷されている。現存している初版は50部にみたない。

アルファベットと紙と活字との出会い

印刷以前
すでに修道院では盛んに写本がおこなわれていた。当初、印刷物は写本をまねて制作された。

中世ヨーロッパでは、書物を複製するときは修道士が手で書きうつした。修道士は書写室とよばれる専用の部屋で全文をたんねんに書写した。

印刷がもたらしたもの

膨大な宗教文書が印刷物として流布する
ルッターはベストセラー作家
宗教改革の宣伝
ラテン語でない俗語の伝播
ある特定の俗語が標準語とみなされる。例:ルッター訳聖書がドイツ語を作った
国民国家(特定の言語を話す民族による国家)の形成 
読書革命(18世紀) 爆発的な読書人口の増加
出版革命(19世紀) 書物が教養財から消費財にかわった
1867年~レクラム百科文庫
1935年ペンギン・ブックス 

(2)読書

読み物としての教会 (宗教)共同体の反復再生
ステンドグラス、 彫刻、フレスコ画 

私の旅行記から
「テュービンゲンにいたとき、近くの山の上の教会に行ったことがありました。
その山はけっして高くはないのですが、不思議と、どこからも見える、台形の山でした。友人の話によるとキリスト教が伝来する以前からゲルマン人たちの聖なる場所とされており、それにキリスト教が教会を建てたといっていました。夕日に向かって走る船のへさきのような形の山で、曇りがちな時でも、そこだけが日がさいている不思議な場所でした。
さてその教会に行こうとしたのですが、ふもとからその教会までの道の脇に順次ほこらがたててあり、そのなかにキリストの受難の像が置いてあるのです。
 信者たちはその道をのぼっていくと、その脇ほこらのキリスト像が示す受難物語を順番にたどることになるのです。捕まる前に祈るキリスト、ユダに接吻を受けるキリスト、むち打たれるキリスト、群衆の前に差し出されるキリスト、十字架を背負うキリスト、十字架にかけられたキリスト、十字架からおろされマリアに抱かれるキリスト、墓のなかから復活するキリスト、という具合に、教会への道をのぼりながら、信者はイエスの受難物語をなぞることになるのです。
 そうして頂上の教会についたとき、私たちはなぜかしらイエスの受難をともにしたような気持ちに、そして少しばかり敬虔な気持ちになるのです。

音読
読み手と聞き手との共同性
黙読
活字の発明が拍車をかけた。孤独な読み手
自家中毒的な自己形成
 読書は読む声を自分で聞くことを繰り返し、その自家中毒的ともいえる活動のなかで自己を形成していくことである。(黙読の場合も頭のなかでは声が聞こえている)。
聞こえているのは正しいとされた標準語であり、それは生活の中での言葉とは遊離している。
読書はきわめて特殊な自我を形成させる。 

(3)書くこと
書くときにも書き手は必ず読者共同体を意識している。しかしそこで流通しているのは中央の男性の声である。
口述の世界        
身振りと声
アルファベットの世界
音を書く
アルファベット活字の世界
音の物質化

書の世界         
身振りに変わる筆触と漢字のもつ絵画性

かなと漢字の世界
音と絵のつづれ織り

ワープロの世界
音をローマ字にして打ち込み漢字とかなを出現させる。文字は完全に音と遊離してイメージとして取り出すものになる。

テキストは画像と並列化する? 

(4)身振り、語りの口承の文化から文字の文化へ

印刷の誕生は 口述の世界がもつ空間性から文字の世界の時間性(線型性)への移行を決定づけた。しかし同時に文字は物質としてある。
黙読の習慣は本へのランダムなアクセス(好き勝手に開ける)ことを可能にした。
口述の世界がもつ循環的反復的な時間は読みのもつ線型の時間へといったん組み換えられた。しかしそれはランダムにばらまき、選択できる時間ともなった。それは線型化されたのち微分化される。 
by takumi429 | 2007-05-02 22:05 | メディア社会学 | Comments(1)

2.言葉と文字の誕生

2.言葉と文字の誕生

人類の進化と特殊性から

1. 生理的早産

 生まれてすぐ歩ける他のほ乳類(牛、馬)と比べて、人間は未熟なまま生まれてくる。

 「人間は生後一歳になって、真の哺乳類が生まれたときに実現している発達状態に、やっとたどりつく。そうだとすると、この人間がほかの法統の哺乳類なみに発達するには、われわれ人間の妊娠期間が現在とりもおよそ一ヵ年のばされて、約21カ月になるはずだろう。」(ポルトマン『人間はどこまで動物か』61頁)

 小さくとも完成体として生まれてくる他の哺乳類はすでに生きていくために必要な本能をもっており、その本能にしたがって周りの世界に関わりそれに規制されつついきている。それに対して本能だけでは暮らせない状態で生まれた人間は文化を身につけることでいきていく。前者は固定的な環境世界に生きているのにたいして、後者の人間は可変的に自然にかかわり、行動によって自然の材料の形を変えて人間の「世界」を創り出す。「動物の本能的行動を『環境に制約された』(umweltgebunden)とよぶならば、人間の行動は『世界に

開かれた』(weltoffen)といわなければならない。」(91)


 「人間はただ物理的宇宙でなく、シンボルの宇宙に住んでいる。言語、神話、芸術、および宗教は、この宇宙の部分をなすものである。」(カッシーラー『人間』64頁) 

 symbol:人間が自由につくることができる記号(思想の科学研究会編『哲学・論理学用語辞典』135頁)

 人間はさまざま記号の世界(宇宙、シェルター)をつくってその中でくらしている。

 

2.直立歩行から言葉へ

 「四足の動物は直接食事を口で食べなければならないから、歯が丈夫でなければならず、鼻面が重くなる。首の一点で支えられる頭の重さの大半は、この鼻面の重さであるから、脳の発達は妨げられる。ところが人間が直立位を獲得して手が食物に手ごろな大きさに分ける仕事にかかわるようになると、不必要になった巨大な熾烈は縮小し、顔が軽くなる。また、脳は、背骨と体全体によって支えられるようになるから、まず後頭部、やがて前頭部が発達する余裕ができる。解放された手は身振りを形成し、食物の咀嚼、嚥下の仕事からほとんど解放された口は、やがて身振りに伴う意味を持った発声、すなわち言葉の形成に専心するようになる。」(アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』訳者あとがき405頁)  

口→声→言葉→verbal communication 

手→身振り →nonverbal communication



3.言葉の二重分節


文は単語へと分解される

単語は音素へと分解される


5本指でいくつ数えられるか(いくつのものに対応させることができるか)?

直接対応させる 5つのものしか対応できず(数えられず)

2進法の表示として手をみなせば、2の5乗(32)だけ数えられる

00000=0

00001=1

00010=2

00011=3

00100=4

00101=5

・・・

11111=31



「あいうえお」でいくつのものが対応できるか?

直接対応させたら55音だから55個のものしか対応できない(示せない)。

音と音を組み合わせれば、二文字で55の2乗(3025)、3文字で166375、4文字で9150625のものが示せる。

○○○あ=9150625個のうちのひとつ

○○○い=9150625個のうちのひとつ



音とものを直接対応させないで、音(音素)からつくりあげた言葉をものに対応させることで、ほぼ無限のことを示すことができる。



言葉が一つの体系となってからはじめて自然と対応しているということになる。だがよく考えてみると、言葉の世界のものがすべて自然において実在するとはかぎらない。

麒麟=?

男の看護婦=?

対応する実在物がなくても言語の体系の中では存在しうる言葉や観念はある。

(cf.数学における虚数も直接的対応する自然物はない。あくまでも数体系のおいて存在が必要とされるもの)。



4.文字の発生と展開

文字はもともと表意文字からうまれた。

文字はどうやら言葉を表記するものとして生まれたよりも、神聖な権力に奉仕するものとして生まれたらしい。それが普通の人々の間で交わされる言葉を表記するものへと転用されたと見るべきかもしれない。

表意文字が表音文字として使われアルファベットやアラビア文字がうまれた。


古代エジプトの象形文字ヒエログリフは、エジプトで前3000年ごろに発生した。古代エジプト人はこの文字をもちいて宗教的内容を記録した。ヒエログリフは視覚的な絵文字の印象が強いため、写真の彫像のように装飾的な要素のひとつとしてよく使用された。

パピルス[1]に書くために、神官文字や民衆文字という章書体が生まれた。

漢字

漢字のもっとも古いものは、殷墟から発見された甲骨文字である。つづいて周代の銅器にきざまれた金文とよばれる文字が知られている。その後、金文をもとにした籀(ちゅう)文があらわれ、秦で使用されるにおよび大篆(てん)とよばれるようになった。秦の始皇帝が天下を統一すると、大篆は改良されて小篆となり、これとは別により実用的な隷書とよばれる字体が登場した。隷書は漢代にはいってもつかわれつづけ、漢末には今日の漢字の標準体である楷(かい)書が生まれた。また、隷書や楷書をより簡略化した草書や行書もおこった。

甲骨文字:神意を問う占いの骨に刻まれた文字


漢字は表意文字のままにとどまった。

 修得が困難。リテラシーの習熟度が権力への近さのバロメーター。

 発音が違っても理解できるからさまざまな言語をもつ民族を支配することができる。中国大帝国が成立しえた理由のひとつ(北京官話と広東語はほとんど外国語どうし)


アルファベット


 修得が容易。文字数が少ないのでのちの印刷革命に適していた。

 (ただし印刷は中国で始まった)。

 わずかな違いも表記の違いとなって現れ、別の言語のようにみえる。ヨーロッパの国語による民族の細分化

 (例:スペイン語とイタリア語はラテン語の方言にすぎないらしい。もしアルファベットやひらがなだけで関東弁と関西弁を表記していたら見た目は別の言葉に見えるだろう)。

アルファベットによって声による言葉を記すものへと文字は転落した。


5.まとめに代えて

声の言葉は人間が相互にコミュニケーションするメディアである。しかし文字は神とその媒介者たる王による世界秩序の形成の証として見いだされ、それがやがて普通のコミュニケーションに転用された。

だが文字言語を修得することは権力への求心的動きを残している。

声は反復される時間を想起させるに対して、文字は世界の始原から現在さらに未来へと至る時間を想起させる。

(文字は声とはことなり、時間を超える。声は必ず時間の流れによって展開される(線条性)が、文字は時間を前後できる。アルファベットの世界では声の言葉に文字が従属しているためにその特性は潜在しているが、印刷術が展開されるとそれがあらわになってくる)。



錯誤(ひねり)

 文字は視覚的だがアルファベットは音を表記するものであるから、文字の発生以前の社会が声中心の社会に見えてくる。しかし現実には文字の発生以前の社会は声と身振りが混在した世界である。







文献

ヤーコプ・フォン・ユクスキュル,ゲオルク・クリ サート(日高敏隆,野田保之訳)『生物から見た世界』新思索社1995年

アドルフ・ポルトマン(高木正孝訳)『人間はどこまで動物か---新しい人間像のために---』岩波新書(G121)1961年

アンドレ・ルロワ=グーラン(荒木亨訳)『身ぶりと言葉』新潮社1992年

W-J・オング(桜井直文訳)『声の文化と文字の文化』藤原書房1991年

カッシーラー( 宮城音弥訳)『人間 シンボルを操るもの』岩波書店1996年

阿辻哲次『漢字の社会史 東洋文明を支えた文字の三千年 』PHP研究所(PHP新書)1999年

ルイ=ジャン・カルヴェ(矢島文夫監訳、会津洋・前島和也訳)『文字の世界史』河出書房新社1998年







--------------------------------------------------------------------------------

[1] パピルス(ラテンpapyrus)

1 カヤツリグサ科の多年草。ヨーロッパ南部、熱帯アフリカ・エジプト・中近東の湿地に野生し、日本へは明治二八年に渡来。観葉植物として温室で栽培される。稈は太く三稜形で、高さ二メートル内外になる。葉は退化して鞘となる。頂部に細長い線形葉状の総苞を三~一〇個傘状に群生する。小穂は淡栗色で多数密生する。花期は秋。三、四千年以前ナイル河畔に生い茂っていたと伝えられ、稈を圧搾して丈夫な繊維をとり、紙を製した。かみがやつり。紙葦(かみい)。

2 紙が発明される以前に、古代エジプトで使用された書写材料。1の髄の細長い薄片を縦横にあわせ、圧搾し日光で乾燥させたもの。
by takumi429 | 2007-05-02 22:04 | メディア社会学 | Comments(0)