第二外国語を前向きに勉強するために
逃げ腰で単位さえ取れたらいいと考えていると、 なかなか単位さえおぼつかないものです。 ここはむしろ攻めの気持ちで習うことにしましょう! 具体的に、たとえば、 フランスに旅行して美味しいものを食べたい、とか (自転車でめぐるパリの旅とか) ドイツで美術館や建築物を見たい、とか、 (病院と団地めぐりが穴場でねらいめでは)、 日僑、華僑に会いに行く、東南アジアめぐり、とか 目標をもってはいかがでしょうか。 NHKでは英語だけでなく諸外国語の講座があり、 しかもネットで前週の放送がストリーミングで聞けます。 https://cgi2.nhk.or.jp/gogaku/index.cgi またcapture streamというソフト(無料)を使えば、 1週間分の放送が一気にダウンロードできます。 http://sourceforge.jp/projects/capturestream/ 試してみてはいかがでしょうか。 第二外国語をがんばると 英語で受けた傷(?)が癒えることがあります。 (私だけかな)。 積極的に勉強してみてください。 それからドイツやフランスなどでは 夏休みに空いた教室と寮をつかって夏期講座が開催されています。 たとえばドイツの夏期講座はネットですべて申し込めます。 https://www.daad.de/deutschland/studienangebote/sommerkurse/de/?skid=369&skenter=81&skterm=&skchapter=0&sktown=Kassel&skstart%25255b%25255d=2012-08&skstart%25255b%25255d=2012-09&sksubject=0&skduration=0&stipendiate=&sk_akademie=&seite=1&ipp=15 十万円前後(学費・寮費)で好きな街に4週間滞在できます。 食事は学食で4ユーロぐらいで定食がたべられます。 (なんて言っているけど、 私が大学時代は第二外国語のドイツ語 惨憺たるものでした。 身につけたのは大学卒業後、 ドイツ語でドイツ語で教える学校でした。 反省をこめての助言でした。) #
by takumi429
| 2014-04-29 01:07
| 社会環境論
『白い蛇』
http://youtu.be/aW0oqfmBH_A 昨年、カッセルの夏期講座の映画ワークショップで作成したミニフィルム。 ようやく担任の金先生から入手できた。 グリム童話の「白い蛇」にもとづくミニ映画をみんなでそれぞれ作ったのだが、これは私が作ったもの。 白い蛇が権力の秘密であり、それを食べることで動物の声を聞き取れるということで情報を収集できる能力をももつ、それを得た主人公が権力を握る、という解釈で作った。 絵コンテ、小道具、ミザンセーヌまですべて私が作ったものだが、いまいちわかりづらいか。 あと音楽があるとやはり見ていてしっくりくるだろうなと思う。 もちろん、音楽があるとごまかせてしまうので、このワークショップではあえて音楽を付けないように指導されたのだけど。 #
by takumi429
| 2013-11-23 00:55
| 映画論
まとめ
カントの『純粋理性批判』。純粋な理性は左頁では「神はいる」と言う。そして右頁ではこう言う、「神はいない」と。純粋な理性というものが、そうした自己分裂、いわば「狂気」におちいっていることを、カントはこの『純粋理性批判』のなかでえがきました。 理詰めだけで考えていくと、神の存在さえどうにでも言える、つまり無根拠なものになったしまう。それが私たち近代人のおかれた精神的状況です。あらゆる道徳倫理の根拠だった神が空位となった時代。それが現代です。 テレビの番組での「人を殺して何が悪いのですか」という子どもの問いかけに絶句し答えられない識者を、もはや誰も笑うことはできないのです。 かつて「神はいる」と信じた人たちがおり、その人たちはこの世界をたしかに変えて来ました。しかし、世界はどう変わったのでしょうか。人を殺してはいけない、その理由をはっきりと言うことができない、そうした世界に変わったです。 宗教が宗教の欠落した世界を生んでしまった、この恐るべき逆説(パラドックス)。この逆説的発展の帰結としての近代社会において、それでもなお、もはや唱えるべき神の名を持たないにもかかわらず、ひとびとに声をあげ訴えようともがく人間、そういう人間として私たちはマックス・ヴェーバーをとらえたいと思います。 宗教と世俗の世界との逆説的な関係は、彼の最初の宗教社会学的論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、すでに明らかです。 教皇庁が発行している贖宥状を批判することで宗教改革をはじめることになったマルチン・ルターがその職業概念(職業のとらえかた)において、宗教者の仕事(聖職)ばかりか、いっぱんの仕事まで、聖職と同じ「ベルーフ」(Beruf)(神から与えられた使命)だととらえようとしたことで、一般の仕事、とくに営利活動(金もうけ)も、けっしていやしい仕事ではないのだとされました。 ジュネーブで厳格な宗教政治をおこなったカルヴァンは人間は救いに予定されている者と滅びに予定されている者に分けられるとしました。カルヴァン派の人々は、その仕事の成果、具体的には、その営業成果(もうけ)が多ければ多いほど、自分は救われる予定にある、と思いこみ、そうした「救いの証し」を求めて、金儲けの仕事を神からの使命だとおもって一生懸命にするようになりました。あるいは、雇われ仕事を使命だと思ってまじめに働くようになりました。そうして営利活動をする資本家と労働者が生まれ、資本主義が成立しました。 しかしいったんこの資本主義が生まれると、こんどはそれ以外の生活態度は許されなくなります。私たちは信仰のためではなく、社会から脱落しないために、必死になって働くしかないのです。 硬直したシステムが支配する現代にあってそのシステムを打ち壊し刷新していくにはどうしたらいいのか。そうした革新と刷新をおこなえる人間はどのような思想を持っているのか。 ヴェーバーはそうした人間像を過去の宗教のなかに探ります。それがかれの『宗教社会学論集』です。この書はヴェーバーの模索の書、いわばこれは「精神の遍歴」なのです。 硬直したシステムとしてヴェーバーが問題視したもののひとつが官僚制でした。 官僚の精神を体現しているのが、孔子を開祖とする儒教です。冠婚葬祭の業者だった孔子とその弟子によるこの思想は、つつがなく破綻なく祭り事がおこなわれることを目的としており、そうしたうわべの端正さ(礼)に至上の価値をおきます。 中国歴代王朝が採用した人材登用試験(科挙)の試験内容にこの儒教が採用されることで、この儒教は中国の政治・知識エリートの哲学となったのです。 しかし、一般の人びとは、まじない(呪術)を信じていました。 呪術には、似た動作や、似たものに加えた行為は同じ効果をもたらすという原理にもとづく、類感呪術と、いちどふれあったものや、体の一部は、本体と離れたのちも、本体に影響を及ぼすという原理にもとづく、感染呪術があります。 宗教は神に懇願・崇拝するのに対して、呪術は神的な力に操ろうとします。 中国では呪術や占いは道教としてまとめられました。儒教はそうしたまじないなどを軽蔑しながらも改めることはありませんでした。こうした役人根性の哲学は世俗に適合することはできても世俗を変えることはできなかったのです。もちろん、そうした精神風土のなかでは資本主義は生まれることもありませんでした。 ではそうした世俗世界を否定するような宗教思想はなかったのでしょうか。 ヴェーバーはそれをインドの宗教思想に見ます。 インド古来のブラスマン教(バラモン教)では、人間の霊魂は、業の輪廻(めぐり)によって永遠に生まれ変わるとされます。生き物は前世におかした罪(業)を引き継ぎ現世に生まれ変わり、現世に犯した罪を、来世に生まれ変わって背負う。こうして因果応報をうけつつ転生を重ねていくというのです。 この輪廻転生からの離脱こそ、インドの宗教思想がめざしたもののです。 ブッダは、こうした輪廻転生をとげていく人生そのものが苦にほかならないとしました。これが「一切皆苦」の教えでです。そのことを知って正しく実践することで、この苦の連鎖から離脱する、すなわち涅槃にいたるのだとしました。 しかしブッダの教えは現実世界から離脱していく修行僧の宗教でした。 それにたいしてブッタの骨をおさめた仏塔を礼拝する在家信者たちからうまれたのが大乗仏教でした。大乗仏教は、現実世界から逃避することができない一般の人びとはどうすれば救われるのかという問題にこたえようとしました。仏となるために修行している人で、人びとを救うために力をつくす人を菩薩と呼びます。大乗仏教では菩薩はブッダだけではなく、たくさんおり、人びとを救うのだとしました。つまり、菩薩とは大衆を救うためにあえて仏となって涅槃に行けるのを思いとどまっている、一種の救世主なのです。 この菩薩の考えかをを全面にだすことで仏教は大衆救済宗教となりました。 さらに仏教は呪術や民間信仰をとりいれインドのあった性力(シャクティ)の秘儀をとりいれることで密教となりました。しかし、その結果、一般大衆の性的・呪術的な信仰のなかに飲み込まれてしまいました。 この後期密教は、唯一、チベットに伝来することで、人間の心身と清濁のすべてをとらえるチベット密教として現在まで生き残ることになりました。 世俗否定的でかつ世俗から離脱しようとした仏教は、結局、一般世界を変えることはできず、それに向きあうとそれに迎合(適合)するしかなかったのです。 もともとのインドの宗教であったバラモン教は、仏教やジャイナ教などの異端を生み出した後、ヒンドゥー教として復興しました。 ヒンドゥー教の神はブラーフマ神、ヴィシュヌ神、シヴァ神の3つです。とりわけ、ヴィシュヌ神とシヴァ神が信仰されました。 ヒンドゥー教では、行為の成果を思わず、義務ダルマをたんたんとおこなうことで、輪廻の輪にまきこまれず離脱できる、とされました。それを特に説いたのが、叙事詩『マハーバーラタ』のなかの「バァガット・ギーター」です。しかし結果を思わずというだけでは心の持って行きように困ります。そこで、ヴィシュヌ神あるいはシバ神のことを激しく思って行為することが勧められました。こうした神への激しい信仰(信愛バクティ)が推奨されることになりました。 こうして世俗に迎合する宗教思想も世俗を否定しそこから離れていく宗教思想も、一般世界(世俗)を変えていく力にはなりませんでした。いまある世界(世俗)を否定しつつそれに激しく関わりそれを変えていくような宗教思想。そうした世界を支配する宗教思想としてヴェーバーがたどり着いたのが古代ユダヤの宗教、とりわけその預言者の思想でした。 都市の王や貴族によって抑圧され奴隷にされることに抵抗し都市から逃げ出したカナンの人びとは、同じようにエジプトの王の元から逃げてきたモーゼがもたらしたヤハウェという神を受け入れ、このヤハウェの名の下に立ち上がり、イスラエル人を名乗り、王侯貴族を打倒しました。ところがみずからの国をつくるとふただび王がうまれ人びとを搾取し隷属させようとします。王制を批判する人びとは、人びとを開放した戦争神ヤハウェを持ち出すことで王制を批判します。イスラエルがその両側にある大国によって滅ぼされると、民衆解放の神ヤハウェをないがしろにしたからであると預言者は訴えました。預言はさらに、ヤハウェはエジプト、アッシリア、新バビロニアの帝国をも操って、自らの神殿さえ壊して、イスラエル(のちにユダヤ)の人びとを罰するのだと訴えました。その結果、ヤハウェ神は、世界を支配する神となり、バビロン捕囚後には、唯一絶対の神となったのでした。こうして、ただ1人の神を崇拝する一神教がうまれました。 ユダヤ人やアラビア人などのセム族には、神の言葉を預かる預言者の系譜がありました。その系譜の最後に立ち、ユダヤ教・キリスト教の神観の元に新しい宗教をたちあげたのがマホメットでした。マホメットはユダヤ教・キリスト教の一神教を受け入れ、より簡単にしかしより力強いものとしたのでした。 ヴェーバーが、『古代ユダヤ教』を書いていた時、ドイツ帝国は第一世界大戦のさなか、亡国の危機にありました。その時、あえて亡国の危機にあることを告げる預言者となろうとヴェーバー自身はしていたのです。それはまさに「神なき時代の預言者」たらんとした英雄的で悲劇的な生き様だったのです。 #
by takumi429
| 2013-07-02 09:40
| ヴェーバー宗教社会学講義
11.『古代ユダヤ教』
仏教はインドにおいてタントラの影響をうけて密教となり、インド大衆の呪術的な密儀のなかに溶けていってしまった。現世逃避的な知的宗教である仏教は、現世に向かう時、それと適合(迎合)することになり、その呪術の絡み合った密林のような園を切り開くどころか、そのなかに埋没していったのである。インドで途絶えた密教はチベットに伝わり、遊牧民たる吐蕃の気高さのなかで命を与えられ、現代まで生き続けることになった。 他方、インド大衆は、変幻自在に生まれ変わり顕現するヴィシュヌ神とシバ神への強烈な信仰(バクティ)を、性交を奉るリンガ崇拝に織り交ぜつつ、ヒンドゥー教を復興させることになった。大衆の呪術的・性的信仰は否定されることなく、続いてきたのである。 さて、役人根性(官僚の精神)たる儒教は、世俗を軽蔑しつつ結局はそれに迎合するしかなかった、知的修行僧の宗教たる仏教は、世俗から逃避したために世俗を変えることがなかった。また世俗大衆を救う宗教として生まれ変わった大乗仏教も、さらに性的密儀をとりいれた密教も、結局、世俗に迎合し飲み込まれ、呪術にそまった世俗大衆を変えていくことはなかった。 こうした世俗迎合(適合)的な宗教とはちがい、今ある現状(世俗の状況)を厳しく否定しつつ、それを支配し変えていった宗教として、私たちは古代ユダヤの宗教を取り上げることにする。 ユダヤ民族は、古代において、周辺の弱小民族でしかなかった。 にもかかわらず、それは消滅することもなく現在まで確固と存続している。いやそればかりか、その弱小民族の信奉する神(YHWH )は、世界3大宗教のうちの2つ、キリスト教の神、イスラームの神となり、今なお、世界の多くの民を支配している。 このパラドックス(逆説)はいかにして生まれたのか。 『古代ユダヤ教』という論文は、この謎を解明しようとする論文にほかならない。 地政学上の位置 イスラエルの民が暮らしたカナンの地というのは、メソポタミアとエジプトの両大帝国に挟まれた地域であり、そのためつねに双方から侵略され支配される運命にあった。 カナンの地理 イスラエルの内部は、北の肥沃は農耕地と、南の荒涼たる砂漠とステップ、とに二分される。北には農民が住み、南には家畜飼育者(牧羊者)が定住する。 古代の国家の発展方向 ヴェーバーは古代において国家の発展には2系列があったと考えていた(『古代農業事情』)。 (1)ギリシャ・ローマ型発展系列:城砦王制から民主的ポリスの形成に向かう (2)オリエント型の発展系列:城砦王制から君主政国家へと発展していく 古代における階級対立 都市貴族が交易によって得た貨幣を農民に貸し、その結果、農民が都市貴族の債務奴隷に転落する。都市貴族⇔債務奴隷(農民) (1)の場合は、一般市民が自分武装することで、政治的権利を得て民主化する。奴隷は征服地から補給される。 (2)の場合は、官僚制をもった絶対的な王制(帝国)が生まれて、王は国家を自分の家として支配し、人民全体が王の家僕(奴隷)となる。旧約聖書のなかで、「エジプトの家」と言う時には、地域的なエジプトではなくて、人民が奴隷状態にあることを指している。 イスラエルは、(1)と(2)の発展方向のはざまにあってもがき葛藤する。 年表 (Metzger1963訳書参照) 前19-17世紀 <族長時代> 前13世紀 <モーゼ時代> 前13世紀後半 イスラエル諸民族カナン侵入・定着(?) 「契約の書」 前12-11世紀<士師時代>部族連合、戦時における大士師の指導 「デボラの歌」 ペリシテ人(鉄器を持った海の民)の東進、シロの神殿を破壊 契約の箱 <王国時代> サウル、王権樹立 前1000頃 ダビデ即位 エルサレムへ遷都 前961 ソロモン即位 王宮・神殿の建設 「ヤハウィスト」(J) 前926 王国分裂 <南北分裂王国時代> 南(ユダ)王国 北王国 前900頃 ヤラベアムⅠ世、ベテルとダンに金の牛の像を起き、聖所とする。 オムリ王、サマリアに遷都。 カナン宗教蔓延 預言者エリア 前850頃 「エロヒスト」(H) 王母アタリアの独裁と死 預言者エリシャ 840祭司による宗教粛正 ←845エヒウ革命(預言者エリヤとエリシャに指導された抵抗運動の指導下に,エヒウが〈ヤハウェ主義革命〉を起こし,オムリ家を打倒) 前800 両王国の繁栄と社会的退廃 ヤラベアムⅡ世 預言者アモス 預言者ホセア 前733 シリア・エフライム戦争 アッシリアに従属 ⇔反アッシリア同盟に属する 前721アッシリア軍によりサマリア陥落 北王国の崩壊(上層民の流刑)と異民族の移住 <単一王国時代> ヒゼキア王 宗教粛正 アッシリアへの反乱 前721 アッシリア軍、エルサレム包囲 アッシリアへの従属 預言者イザヤ(後期) 「エホウィスト」(J+H) アッシリアの衰退 ユダ王国の一時的独立 ヨシア王(前640-609) 申命記改革 ヤハウェ原理主義 エルサレム礼拝独占 「申命記」(D) 成立 前609 メギドの戦い ヨシア王の死 預言者エレミア(前期) エジプトの支配 新バビロニアの支配 預言者エレミア(後期) 前597 新バビロニア王ネブカドネザルの軍、エルサレム包囲 第一次捕囚 (上層民をバビロンに連行) 前578 新バビロニア軍によりエルサレム陥落、神殿崩壊 第二次捕囚 預言者エゼキエル <捕囚時代> 捕囚地バビロンで「神聖法典」(レビ記17-26章)「祭司文書」(P) 成立 預言者第二イザヤ 前539 ペルシャ軍によりバビロン陥落 <ペルシャ時代> 前538 ペルシャ皇帝キュロスⅡ世の勅令により第一次帰還 前515 サマリア人の援助を断り、その妨害に耐えて神殿を再建。 前458 ネヘミア、ユダヤ州の知事として着任。城壁再建、社会改革。 前430 エズラの宗教改革進展。 エルサレム神聖共同体を確立。大祭司・長老組織による行政 「モーゼ五書」(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)の最終編集 前331 アレクサンダー大王によりペルシャ滅亡 ヴェーバーが取り入れた聖書学の内容 4資料仮説(ユリウス・ヴェルハウゼン) 旧約聖書の律法(トーラー):モーゼ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)はさまざまな文書から成り立っている。 文書名略号成立期成立場所特徴など ヤハウィストJ前10世紀統一王朝時代のユダ神名ハヤウェYHWHを使用 エロヒストE前9世紀分裂時代の北王国神名エロヒーム「神」を使用 申命記D前7世紀北王国崩壊後のユダ捕囚期に増補改訂 祭司文書P前6世紀バビロニアとユダ教団祭司が作成 エホゥスト JE 北王国崩壊後のユダ JとEを結合 生の座(Sitz im Leben) (ヘルマン・グンケル) 編集された文書には、以前からのさまざまな伝承(法律集をふくむ)が含まれている。文章の様式から、そうした伝承がおこなわれた場(生の座)を探らなくてはいけない。 共感呪術的狂騒道 フレイザーの金枝篇から共感呪術の思考がもたらす、多産を願っての性的な狂騒道が、農耕民において繰り返されるとした。具体的には北王国に頻繁にみられた金の牛の崇拝やバール神への崇拝を指している。 社会対立の構造 王権以前の社会構成 農民・土地所有の氏族(ヤハウェの名のもとに集う連合軍の担い手) 牧羊者の氏族(ヤハウェ連合軍の担い手) 客人氏族(手工業者・楽人など) 王権後の社会構成 都市居住地主貴族(軍事的担い手) 都市デーモス 非軍事化・無産化したイスラエル人(←農民・牧羊者) 改宗した寄留者(←客人氏族) イスラエル内部の階級対立 イスラエル誓約連合は、ヤハウェの名の下に、カナンの都市貴族への反乱解放の軍事同盟として生まれた。ヤハウェは誓約連合のためにモーゼからイスラエルの民が受け入れ契約を結んだ戦争神だった。都市貴族への隷属は、エジプトの王制の下の屈従にたとえられた。だからそこからの解放は、「エジプトの家」からの解放にたとえられ、モーゼの「エジプト脱出」(出エジプト記)の記憶が、誓約連合の民衆全体の記憶となった。 にもかかわらず、王制が生まれると、今度は都にいる王と貴族が、かつての都市貴族と同じく、民衆を搾取し債務奴隷にしようとする。イスラエル内部には、解放のための連合から生まれた王制が大衆に隷属をもたらしていることへの不満と批判がたえず渦巻いていたのである。 ユダヤ教発展の担い手:祭司・知識人・預言者 レビ人祭司(一般大衆を相手にする祭司) 宗教的カウンセリング(魂のみとり)での質問 「どうしてこんな苦しい目にあうのでしょうか?」 「あなたはものを盗んだりしませんでしたか?」 この質問を肯定形にすると 「あなたは盗んではならない」という戒律になる。 レビ人のもとに来たのは都市貴族によって債務奴隷にされたりしている都市無産階級や地方の搾取されている農民たちであった。彼らの質問に答えるにつれて、レビ人の宗教の内容は、もともとは誓約同盟の同胞であった民衆を無産化させ隷属させている王制への批判と、もともとの解放の同盟であったイスラエルへと立ち返るべきだ、という内容になっていった。 ヴェーバーは律法の生まれた「生の座」をレビ人の宗教的カウンセリングにみたのだ。 知識人 バビロニアやエジプトの神話を脱色して多くの神を削り、循環する時間感から直線的な時間を導き出して、ユダヤの知識人(上層祭司)はユダヤ教を一神教として精錬していった。 たとえば、ティアマートという(海水の)原母神の殺害から世界が創造されるネヌマ・エリシュ神話を換骨奪胎して、創世記の世界創造神話がうまれた。その際、ティアマートは「水」になっている。 だが多神教の世界から一神教の世界へと神話を書き換え、ユダヤ教の純化と体系化をはかるには、その前提として、ヤハウェ神の絶対性が確立していなくてはいけなかった。それはどうやって生まれたのか。 預言者 ヤハウェの絶対性を確立してそれを民衆に告げたのは預言者たちだった。 預言者とは予言者とはちがう、神と民衆をつなぐ仲介者を言う。神の言葉を預かり民衆に伝える。「主はこう言われる」。当時、主人の言葉を預かった僕(しもべ)は、相手方に到着すると「私の主人はこう言った」と語り始めて、自分の主人の言葉をそのままオウム返しした。その習慣を預言者と神との間に適応したものである。つまり預言は、将来の予告よりも、神の言葉の宣布にあった(雨宮慧著『図解雑学旧約聖書』ナツメ社(2009年)180頁)。 ユダヤの預言者は、敵の帝国による北王国とユダヤの滅亡を、ヤハウェが敵国をあやつって下した、イスラエルへの罰だと解釈した。それまでの解釈は、民族の敗北=国の神の敗北である。しかし、預言者の解釈は、ユダヤ民族の敗北=背信のユダヤ民族にたいするヤハウェの罰である。その際、ヤハウェは敵の帝国軍をも操れる絶対的な神へと昇格している。この卓抜した解釈と宣告によって、ヤハウェは絶対の世界神となり、その絶対神の与えた命令(律法)を守るユダヤ民族には必ず救済があるはずだとの強烈な信仰がうまれたのである。 その際、イスラエルが犯した罪として挙げられたのは、ヤハウェ以外の神への崇拝へと、同胞を債務奴隷として隷属させる罪である。 イスラエルには、北と南の対立、都市の貴族と(債務奴隷としての)農民と定住した牧羊者との対立があった。 農耕地が多い北では、農耕の多産を祈願するバールなどにたいする信仰と祭儀が盛んであった。北王国の預言者はこのヤハウェ以外の偶像崇拝による祭儀を激しく弾劾し、それが北王国滅亡の原因だったとした。 南のユダ王国の預言者は、さらにエルサレムの神殿の崩壊さえ預言するに至った。同胞を搾取隷属する驕慢な王国に対して、ヤハウェはアッシリアや新バビロニアをもあやつって罰を与えるのである。ユダヤが崩壊したのは、エジプトやアッシリアや新バビロニアの神が、ユダヤの神ヤハウェより強かったからではない。ヤハウェがエジプトやアッシリアや新バビロニアのような強大な世界帝国までも、あやつるような唯一絶対の神だからである。 祭司・知識人・預言者の三つどもえの働きによって、ユダヤ教はやがて一神教へと純化・体系化され、捕囚後ユダヤはその信仰による神政政体となった。 ユダヤの崩壊と捕囚というもっとも宗教的な危機でもありえた事件が逆にヤハウェの信仰を強靭なものにし、それは一神教として確立したのである。まさにこの逆説こそ、西洋社会とイスラム世界を支配する一神教をもたらした逆説なのである。 預言者の2類型 ヴェーバーの預言者類型では、模範預言と使命預言が有名である。模範預言は信徒に自らが手本となってみせるような預言者あり、ブッダなどがその例である。使命預言とは信徒に神の命令を伝える預言者である。古代ユダヤの預言者がまさにそれにあたる。 さてこの「古代ユダヤ教」では、ヴェーバーは預言者を、イメージを幻視する視覚的な預言者と、神の声を聞く聴覚的な預言者とに分けている。 視覚的預言は、集団的な狂騒と関連があるとヴェーバーはみなしている。それはちょうど、ニーチェが『悲劇の誕生』で、コロスの音楽によるディオニソス的原理と彫刻的なアポロ的原理が、ギリシャ悲劇のなかで交互に現れると説いているのと照応する。この視覚的預言は音楽にひたりながら幻影を見る満ち足りた至福の状態をもたらす。 それにたいして、聴覚的預言はあくまでも預言者を突き動かしてやまない。それは人を突き動かし続ける命令の預言なのである。 このセム族に見られる聴覚的な預言者の系譜の最後にある者として、私たちはイスラーム教の開祖マホメットへと話を進めなくてはいけない。 #
by takumi429
| 2013-06-24 02:49
| ヴェーバー宗教社会学講義
10.『ヒンドゥー教と仏教』(2)
都市発展時代の生まれた世俗逃避的知識人による異端宗教 サーンキヤ学派(ウパニシャッド哲学の一派) 男性的精神原理(プルシャ=アートマン)は女性的原理の原物質(プラクリティ)と結合することによって輪廻に巻き込まれており、知恵をえることで、そこから離脱(解脱)できると説いた。 ジャイナ教 苦行によって古い業をなくし新しい業が自我に付着するのを防ぐことで、輪廻から離脱しようとする。 五誓戒 生き物を殺すこと、嘘をつくこと、盗むこと、男女のよこしまな行為、ものを所有すること、を禁止。 不殺生戒のためにマスクをして生産活動から離れ商業に従事。 空衣(裸体)派と白衣派に分裂。 一般世界への影響力は限定されたものとなった。 仏教 苦行の否定。瞑想の重視。(ムキになった苦行も我執(煩悩)のひとつ?) (安定した一定の)自我の否定。人間とはいろいろな要素が集まったのだけのもの。 輪廻ばかりでなく、あらゆるものが変化してとどまることがない。 四諦八正道 苦諦:生きることは苦である 集諦:苦の原因は煩悩である 滅諦:煩悩を消すことで苦が滅する→涅槃(ニルヴァーナ) 道諦:煩悩をなくし悟りを開くための8つの道 正見、正思惟、正語、正業、正命(生活)、正精進、正念(自覚)、正定(瞑想) 部派仏教 きわめて個人主義的な修行僧の宗教(世俗否定・世俗逃避的宗教) 大乗仏教(紀元前3世紀~後3世紀) ブッダの遺骨を収めた仏塔(ストゥーパ)を崇拝する一般信者から起きた運動。 仏の複数化。 菩薩:仏となる〈涅槃にいたる)手前であえてこの世にとどまり大衆を救う存在 如来蔵(仏性):人間はだれでも仏になる性格をもっている ブッタの言葉によらない膨大な仏典の出現。「浄土三部経」、「法華経」、「般若経」、「維摩経」、「涅槃経」、「勝鬘経(しょうまんぎょう)」などなど。 「空」の思想:あらゆる物質が相関的であって絶対で安定したものではない 密教(6~7世紀) インドの呪術的信仰の積極的導入。 マントラ(真言):呪力のある言葉。バラモン教のダラニ。 印契(いんげい):手を結ぶ形で呪力をもたらす ホーマ(護摩):火を炊いて煩悩を焼きつくす。 タントラ:シャクティ(性力)崇拝 大日如来:宇宙の根本仏 マンダラ(万神殿パンテオン)による宇宙の表象 金剛界(智の世界)と胎蔵界(理の世界) 教典 「大日経」・「金剛頂経」→日本・チベット 「秘密集会タントラ」→チベット ヒンドゥー教(←バラモン教) ブラスマー(世界創造神) ヴィシュヌ(世界維持神) シヴァ(破壊神) 多くの信者は、ヴィシュヌ派とシヴァ派に分かれる。 神への熱烈な信仰(親愛バクティ) リンガ(男根)崇拝 ピータ(台座)(=ヨーニ女性性器) #
by takumi429
| 2013-06-16 17:40
| ヴェーバー宗教社会学講義
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